蟹江町の寺院編

須成龍照院を始めとする蟹江町内の寺院&仏閣を紹介します。

蟹江山常楽寺龍照院(須成地区)

龍照院は、奈良時代の天平5年に行基菩薩により草創されたと伝承されています。正式には「蟹江山常楽寺龍照院」と称し、真言宗智山派(本山京都智積院)に属する寺院です。江戸時代の『寛文文書』や『張州府志』によれば、龍照院自体は蟹江山常楽寺の支院で、当時名古屋大須宝生院(大須観音)に属していたことが知られています。天保3年に始まり、弘化3年に完成した藩撰地誌『尾張志』によれば「天平五年行基菩薩の草創にて、この後、寿永元年木曽義仲主、七堂伽藍十八坊等悉造立ありて、寺領も七十町余ありしが、天正12年、蟹江合戦の時、兵火にかかり堂舎、僧坊退転せしよし伝へり、又一山十八坊の内十七坊廃れて、終にこの龍照院にみは本坊にて今にいたれり」と記述されているように蟹江合戦の兵火により、龍照院一坊と本尊十一面観音のみが残されたようです。江戸時代は、隣接する須成神社と併せた門前町として本寺も再び復興し、文化の拠点でもあったので、天明3年には、蟹江地方最初の寺子屋が開かれ、近郊からも多くの子女が通ったようです。しかし、明治初年の神仏分離令と廃仏毀釈、寺領上地などのため、境内や寺領も大幅に縮小されました。明治24年の濃尾地震のため本堂、客殿、庫裡など全て倒壊しましたが、69世住職那須政隆氏(後の総本山智積院化主・真言宗智山派管長・真言宗長者)代に再建され現在に至っています。本尊の木造十一面観音立像は、平安末期の寿永元年に造立された仏像で、昭和6年に旧国宝保存法により国宝に指定、戦後文化財保護法により重要文化財に再指定されています。昭和47年国庫補助事業として「収蔵庫」が完成するとともに本尊様は本堂から「収蔵庫」に安置されましたが、平成15・16年度に文化庁の新事業として、文化財保存公開施設が建設されました。本来は、60年に一度開帳される秘仏でしたが、施設完成を機として毎月18日に公開されています。現在龍照院は、尾張33観音第13番札所として、また大相撲名古屋場所での高砂部屋の宿舎として賑わいをみせています。なお、境内には、木曽義仲の妻である巴御前所縁の大日堂、豊臣秀吉お手植えの銀杏があります。 

江閣山善敬寺(須成地区)

須成地区の浄土真宗大谷派に属する寺で、三河三ヵ寺の一つ本証寺の末寺、草創は不詳、寺の縁起では天文10年天台宗寺院の了祐が真宗に帰依したことに始まるとされています。寛永12年本願寺十三世宣如光従の裏書花押がある「三朝高祖真影」があります。明治24年の濃尾地震により全壊、その後明治30年代に再建されました。

境内には神田銀行創始者神田鐳三を顕彰した渋沢栄一筆による神田氏家系碑があります。

光林山蓮行寺(西之森地区)

西之森本田地区の古刹で、浄土真宗本願寺派に属するお寺です。開祖は光林坊左誓氏で本尊は阿弥陀如来像です。開祖光林坊は、下之森村(あま市下之森)の百姓の次男で、出家し清洲の天台宗順正寺の住職となりましたが、天正年中西之森の新田開発者16名の一人として加わり慶長2年ここに寺を建立し、重正寺と号したとされています。寛文8年西本願寺の本願寺派に属する寺院となり、本山から蓮行寺の寺号を賜ったとされています。

浮島山地蔵寺(蟹江新町地区)

真言宗智山派のお寺で、本尊は木造地蔵菩薩立像です。創建について寺伝では、昔この地周辺は浮島と呼ばれていた所、ある時、海上に夜な夜な光を放つ古木の仏像があり、それを持ち帰り蟹江城主に差し出したところ、城主渡辺与三郎は、この仏像が生地摂津国が大洪水となり、渡辺一族の守り本尊の地蔵仏が流れ着いたものと思い、その地に地蔵菩薩を守り本尊として安置するため、天文9年地蔵寺を開山し祈願所としたとされています。地宝の絹本著色文殊菩薩・千手観音画像は愛知県の有形文化財の指定を受けています。聖徳太子作と伝承されている本尊地蔵菩薩像は、天正12年の蟹江合戦のおり、焼失を免れたこともあり、火伏の仏様としても厚く信仰されています。

海辺山法応寺(蟹江本町地区)

浄土宗西山派に属し、本尊は木造阿弥陀如来坐像です。寺伝によれば、清洲城から蟹江城築城に際して、現在の蟹江新町高賀須に移転、更に享徳3年に紫空上人により現在地に移転されました。

天正12年蟹江合戦で焼失、天正14年に再建されましたが、明治21年放火による火災に遭い、一切の財宝、古文書などの記録が焼失されたと云われています。現在の寺は、明治35年に本堂以下が再建されたものです。境内の鐘楼は約300年前に建造されたものと云われ、桜の参道ともに見応えがあります。