不木の探偵小説観

不木と探偵小説のかかわり

探偵小説家となるの記 大衆文芸月報11号 昭和3年 大衆文芸社

 一時流行した表題を用ふるならば、『探偵小説家になるまで』とすべきであろう。今から十三年前、東大の医学部を出た頃には、将来探偵小説家にならうとは夢にも思はなかった。免疫学血清学を修めて、せめて結核の治療法でも完成したいものだと、途方もない空想をいだいていた迄はよかったが、結核の治療どころか、あべこべに結核に罹り、危篤に陥ること数回、やっと死地を脱して、昨今まづかに細い生命を保つといふ有様、その病中に読んだ探偵小説が役に立って今では生活の資となるなど人間のうんめいといふものは、到底探偵小説家の構想も及ばぬくらゐ皮肉に居るものである。

 探偵小説を読むことは、むかしから好きであったが、大正六年に洋行する前、英語の練習のために、ドイルやシャーロック・ホームズ物を読んだのが、病みつきになるはじめであった。その夏三崎の臨海実験所へ研究に遣はされたが、「あんどんくらげ」の生理研究よりも、ホームズの推理に魅力を感じ、たうとう寄宿舎の縁に寝そべって、書棚に寄贈されてあった探偵小説を読んでしまった。その年の冬アメリカのボルチモアに渡り、翌三月紐育に落ち着いて研究室通ひをするやうになってから、週刊の「探偵小説雑誌」を買って、毎夜十二時から二時迄読み耽った。その時分アメリカではランドンが一番活躍して居た。何しろ研究室の仕事も忙しいので買って読む暇はなかった。ただポオだけは、ボルチモアに居た頃、よくその墓におまゐりしたことのある関係上度々読み、また、オー・ヘンリーも好んで読んだ。

 英国に渡ってから、ホームズ物に出て来るロンドンの地名にまのあたり接して非常になつかしい思ひがした。ホームズが住んで居たといふベーカー街も毎日通つた。その番地を探したが、もとよりあらう筈はなかった。けれどもロンドン滞在中は、研究室の仕事が一層忙しくて、ゆっくり探偵小説を読む暇はなかった。ところが名物の霧があらはれる頃から、だんだん健康がすぐれず、遂に持病が再発したので三ヶ月間海岸のブライトンへ行って静養し、その間に手あたり次第小説を読んだ。フリーマンのソーンダイク物が殊にめづらしかった。

 いつまでも静養して居るわけには居かぬから、三月の末にパリへ移つたしが、たうとう大喀血を起こして、ホテルの一室でどつと床についてしまつた。もうぢき死ぬだろうと言はれたので、死ぬくらゐなら、一冊でも余計に探偵小説を読んで置かうと、血を喀ながら読んだ。小説が行李一ぱいほどたまったが、それをすつかり部屋番にあづけてしまつて、つひ持つて帰らなかつたには、いまでも残念に思っている。その中には二度と手に入り難いガボリオーの短篇集もあつた。パリで漸し起き上れるやうになると、大西洋沿岸のアルカションへ転地し、そこで三ヶ月間主としてルブランを読んだ。

 日本へ帰つたのは大正九年の冬、郷里で静養を決したが、寒さの為に喀血が起り、ついてインフルエンザ肺炎で死にそうになり、それから一年間、床をはなれることが出来なかつた。床の上で書いた『学者気質』が東京日日新聞及び大阪毎日新聞に連載れると、その中に探偵小説のことを少し書いたのが目にとまつて、森下雨村氏から『新青年』へ原稿の注文があつた。

 それから森下氏がどしどし新刊の探偵小説を貸して下さつたので、一時は毎日平均一冊宛読み、お蔭で病苦を忘れることが出来た。探偵小説と犯罪研究書をも貸してもらひ、『新青年』に幾多の犯罪に関する未熟な読物を発表させてもらつた。

 大正十一年の夏、ドイツ滞留中の古畑種基博士から、数冊の探偵小説を送られたが、その中にドゥーぜの『スミルノ博士の日記』があり、つくづく感心したので、森下氏に告げ、鳥居零水の名で「新青年」に訳述させてもらつた。ついで、ドゥーぜの『夜の冒険』を訳した。丁度その頃江戸川乱歩氏の処女作「二銭銅貨」を読み、すっかり感心してしまひ、日本探偵小説も決して海外のそれに負けぬと思った。大正十二年の大震災の頃、又もや喀血に見舞はれて床についたが、間もなく回復して、現在の住所に移つた。翌年ウィリアムズの「真夏の惨劇」を訳したが、その頃江戸川氏をはじめ甲賀三郎、横溝正史、山下利三郎の諸氏が『新青年』で創作家として活躍し、一方松本泰氏は個人雑誌に拠って盛んに創作を発表された。後に知つたことだが、圀枝史郎氏が翻訳の名のもとに、その以前から沢山のすぐれた創作を発表した居られたことは、特筆大書しなければならない。その冬の頃から、何だか創作がしてみたい気になり、たうとう「女性」に「呪はれの家」を発表した。これが、探偵小説壇にふみ入る第一歩であつた。

 それから今日に至るまで随分沢山書きなぐつた。大量生産であるから碌なものはないが、森下氏はよく面倒を見て、厭ともいはず、「新青年」の貴重なるページを割いて下さつた。さうして森下氏の激励によつて、はからずも、最初の長篇小説「疑問の黒枠」を書くに至つた。

 かういふ訳で、創作に筆を染めてから満三ヶ年を経過したが、どうもまだ探偵小説なるものの研究が足らず、これまでのものはすべてみな習作に過ぎなかつたといつてよい。

 これからは、何とかして、すぐれた長篇探偵小説を書いてみたいと思つて居るが、ことによると空想に終るかも知れない、諸君の御声援を切に御願ひするのである。

 

「不木全集8巻 病間随筆」P27 読書

   大正7年3月から大正8年6月までのニュヨーク滞在中   

  毎夜午後10時から12時までの間 探偵小説 Detective story magazineを読書。

  大正8年冬 持病再発しかけたのでブライトン(英国南部海岸)滞在中

   翌3月まで滞在静養中  コナン・ドイル オースチン・フリーマンの探偵小説を読書した。

  同3月にパリに移動。ホテル内で静養中ドフトエフスキー作「罪と罰」を読破。  生まれて初めてドフトエフスキーに接する。(P28)

  「かねてからその偉大な芸術についてはよく聞いていたが、何気なしにベッドで仰向けになりながら、ページを読み進めていくと、どうだろう。上巻の3分の1にも達しない内に、心臓の鼓動が非常に激(劇)しくなって、胸が圧迫されるように感じ、今にもはしかゆくなって血を喀きそうになったので、どうしても読み続けることができなかった。その程私はこの小説に感動してしまったのである…一時は、この書を読むことによって、血を喀くような気持ちとなるため、身体に害がありはしないかと思ったが、よく考えてみればこの書は、私を、怖ろしい病から救ってくれたともいうことが出来る。何となればこの書さへ手にしておれば、その間少しも病気のことを考えないからである。すなわちともすれば胸に集まり勝ちの精神をデヴィエートして、その間病苦を忘ることが出来たからである。この書と同時に、私は過去二カ年間の大病中随分沢山の探偵小説を読んだ。探偵小説は私を完全に病の手から奪ってくれる。すなわち探偵小説を読んでいる間は、病を顧みる遑(いとま)が少しもないのである。そのせいか、私はとにかく近来著しく健康を恢復(かいふく)した。」

 

  「不木全集第15巻 怪奇談叢」P183からP184

「私は小さい時から探偵味の豊富な読物を読むことが好きであったけれど、本当に好きになったのは大学時代である。そうして大学一級のときに、学資が足らなくなったので、『あら浪』という探偵小説じみたものを書いて京都の日出新聞に連載してもらった。然し小説などを書いていては、学科の方がおろそかになるからと思って、断然書くことはやめたけれども、読むことは相変わらず好きであった。ことに私は、コナン・ドイルの小説が好きで、シャーロック・ホームズの出てくるものは、片っ端から貪り読んだものである。学校を出て研究室にはいり、実験室で働くようになったとき学問研究ということは、ちょうど、探偵が、一つの事件を解決すると同じように、鋭い観察力と推理力を働かせねばならぬことを知り、推理力と観察力を養成するには、探偵小説を読むに限ると考え、私の探偵小説熱は、一層高まってきた。大学を出てから、いよいよますます私は探偵小説を愛するに至り、留学を命ぜられて、アメリカに渡ったとき、ニューヨークでは、毎晩十二時から二時頃迄、彼地の探偵小説雑誌を読むことに決めていた。…自分で探偵小説を作ろうなどという気は毛頭なかった。…パリで重い病気にかかったとき、推理観察力の養成などということを離れて、探偵小説は、一つの大きな慰安であった。…昨今病気が退いてからは、とうとう探偵小説の創作を試みるようになってしまった。…要するに、私が探偵小説を愛読するに至った動機は、好きだから好きになったというのが至当であって、学問研究の際の役に立つなどということは、いはば『こじつけ』にすぎないのかも知れない」

 

不木の探偵小説観

  「不木全集第8巻 病間随筆」P30  読書

「病気以前にも、私は非常に探偵小説を好んだ。そして探偵小説は私の専門の学術研究の際にも余程役に立った様に思う。私の専攻している血清学は、医学の中でも比較的新しい学問であって、これが進歩は、ひたすら優秀なる想像力に待たねばならないのであるから、その想像力の養成のために私は探偵小説を読んだのである。従来の偉大なる学者の多くは豊富な想像力の所有者であった。フランスの大生理学者クロード・ベルナールは、実験室以外の場所では、常に研究題目について、出来る限り多くの想像力を働かせよと教えたが、日本の偉大なる研究業績の少ないのは、日本の学者が想像力に乏しいためではないかと私は思う。ビスマークはフランスの探偵小説家エミル・ガボリオーの作品を頻りに研究し、アメリカの前大統領ウィルソンは講話条約の最中コナン・ドイルの探偵小説を耽読し、ポアンカレも『シャーロック・ホームズ』に感心して、『偉大なる人物』だと賞賛したと伝えられておって、私はこれらの人々が何の目的で探偵小説を読んだかは知らぬが、少なくとも私自身は探偵小説によって多大な利益を得たように思う。…こうした訳で病中の友はやはり探偵小説である。事件の秘密が如何に解決されるであろうかと、色々想像を巡らしながら、緊張して読む心地は実に良いものである。そして事件が自分の想像通りの結末になれば嬉しく、また以外の結末になれば、それだけ却って愉快を感ずる。丁度実験室内で自分の想像通りの結果になるのも面白いが、意外な結果となって、それから、却って面白い方面に発展したときと同じ様な気持ちである。つまり私は実験の楽しさを探偵小説によって補っておるわけである。そして実験室内に働き得ざる悲しさを慰めつつ暮らしておるのである。」

  

 「不木全集第8巻 新道話」P256

「犯罪探偵の際には、眼に見えぬ程の小さなものが手がかりとなって、難事件が解決されることがある。だから、犯行の現場に落ちている一本の毛、数粒の土砂も決して見逃してはならぬのである。」

 

  「不木全集第12巻 文学随筆」P18~20

「小説就中探偵小説は私の外国留学中多大の楽しみを供給してくれたのみでなく、私の専門の科学研究にも多大の力を与えてくれた。科学的研究に最も必要なるは、観察力と想像力とである。実際昔から優れた科学者は観察力と想像力のよく発達した人たちであった。例えばニュートンは林檎が落ちたのをみて…コナン・ドイルは医者である。シャーロック・ホームズはドイルの師の何とかという内科医をモデルにしたのであることは…この人は非常に観察力の優れた人で患者を一目見て、其の職業を言い当てた程、観察力が優れて居た人であった。ドイル自身も、観察力が優れて居なければ小説は書けない訳である。立派な医者になるには、是非探偵小説を学ばねばならぬ。単に医者ばかりではなく、すべての人にも必要である。」

  

  「不木全集第12巻 文学随筆」P20

 「科学者は誰人でも探偵小説によりて利益をうることは言うまでもないが、医者は殊に探偵小説と縁が深いものである。就中犯罪の心理を研究する精神病学や犯罪を鑑定する法医学のごときこれである。否探偵小説はこれらの方面をよく研究しなければならない。…超科学的なことを加味した探偵小説は私は実は好まないのである。内容は飽くまで科学的であってほしい。…現代の小説は飽くまで現代の科学に立脚してほしい。…そうして探偵小説を高級な読み物としたいのである。」

  

  「不木全集第12巻 文学随筆」P22

 「現今の日本の探偵小説界は何といっても翻訳物の全盛時代である。…何故日本には名探偵小説家が出来ないであろうか。…日本人の生活状態や社会状態が、探偵小説の内容となるにあまりにも貧弱なるがためでもあろう。探偵小説には極端なる、むしろ病的な社会状態の背景を必要とする。…天才が出ても、やはり事物の科学的的研究に立脚するに違いないであろう。科学は普遍性を持って居るからである。」

  

 「不木全集第12巻 文学随筆」P24

 「通常の科学的研究と探偵術との差異は、科学においてはあらゆる現象を悉く包括して結論を下さねばならぬに反し、探偵にありては、色々多数の現象に遭遇しても、その内から必要ある現象のみ選び出さねばならぬ。等しく科学的態度を取るにしても、後者にも特別な技量を要するので、偉大なる科学者と雖もそれ故必ずしも名探偵となることは出来ないであろう。」

  

  「不木全集12巻 文学随筆」P24

「丁度法医学が応用医学であっても、やはり一つの系統に纏められなければならぬが如く、探偵の学も、総ての自然科学及び精神科学の応用であっても、やはり一つの系統に纏められねばならぬと思う。すなわち探偵学なるものが建設せらるべきものである。」

 

 「不木全集第15巻 怪奇談叢」P184

「コナン・ドイルの小説や、ドイル以前のポーの探偵小説には推理力を養成するに足る小説が甚だ多いが、昨今の探偵小説なるものはだいぶその趣をかえるに至った。で、昨今の探偵小説は、専ら人の好奇心に訴えるものであればよいとされれ、必ずしも、犯罪とその解決を取り扱わなくなったのである。元来探偵小説なるものは、決して推理観察力を養成するために作られるもののでなく、ただ私が勝手に前述のような理由をつけて愛読しただけであるから、推理による犯罪解決を取り扱わなくても決して探偵小説の価値が左右せられる訳でないが、推理による犯罪解決を取り扱った探偵小説は、たしかにある程度まで、推理力を養成するに都合がよいと思って、いつも若い人たちにすすめるときは、そういう自分勝手の理屈をつけているのである。」

  

 「万有博士の20年代 ー医学、犯罪学、探偵小説、そして諸学の新しい波」

     長山靖生著 殺人論 国書刊行会 平成3年10月  P320

「ところで、不木にとって犯罪学とはいったい何だったのだろう。彼の眼差しは、たとえ死体を語っているときにも常に生きた人間に向けられており、遠くはなれた過去の時代の一見怪異に見える事象を論じながらも、その関心は我々自身の現下の問題へと継起されるものであり続けた。不木にとって、犯罪学は人間学だったのである。」

不木の探偵小説の将来観

 「不木全集第12巻 文学随筆」P26

「一口にいえば、文学が存在する限り、探偵文学も存在するであろう。」

 

 「不木全集第12巻 文学随筆」P29

「探偵小説の流行を盛んにするには、長編がどしどし発表されなければならない。涙香物が一時天下を風靡したのは、その殆どが悉く長編だったからである。・・・長編探偵小説を書くためには、なおさら、従来の著名の作品の研究を深めねばならない。長編小説の興味はまったく筋の立て方の功拙にかかるのであるから、出来るなら二人以上の作家の力を併せてでも、工夫をこらすべきであろうと思う。・・・いずれにしても、日本の長編探偵小説時代は、これからであって、そのうちには、新しい涙香時代がくるであろう。

 

 「不木全集第12巻 文学随筆」P30

「長編探偵小説が大衆的であるのに引きかえ、短編小説は、それほど大衆的なものではない。通常(短編小説は)『本格』と『変格』とに分類されているが、従来の作品は『変格』が甚だ多かった。変格探偵小説は作者のウィット(機知)の産物である。ウィットで作られるものは、・・・まったく作家の天分によるより外はないのである。それ故読む方でも、作家の天分を鑑賞する気になって読むものであって、大衆的にはなりにくいのである。だから探偵小説家が、変格的な短編小説を発表している間は、探偵小説の流行をそれほど盛んにならしめ得ないのである。」

 

 「不木全集第12巻 文学随筆」P31

「探偵小説を大衆的に盛んにしようと思うならば、各作家は、本格的な、大衆的な短編小説をも産出するように努力すべきである。が、探偵小説の読者には、不思議にも、自然科学を修めた人々が多いから、作品が『科学的』であることは常に必要な条件であると思う。科学的であるということは、前にも述べた如く、必ずしも自然科学的知識をおりまぜることではなく、むしろ作品にスキのないことをいうのである。即ち、前後に矛盾のないことである。これがため、本格探偵小説の構想には可成り骨が折れるのであって、作家は余程身体が健全ではなくてはならない。」

 

 「不木全集第12巻 文学随筆」P32~P34

「今後の長編探偵小説では、一つのミステリーを、その事件に関係した総ての人物が有意識または無意識に解決して行くといった形式をもったものが喜ばれやしないかと思う。」

 

 「探偵小説四十年 探偵小説はどうなったか」 江戸川乱歩 沖積社 P118

 「何といっても、本邦探偵小説界は前掲の三人を恩人と云うざるを得ぬ。即ち森下雨村はその紹介者として、江戸川乱歩は探偵小説の位置を高め、文壇的に認めさせたる点において、又小酒井不木は一般娯楽誌に探偵小説を掲載せざるべきからざる機運を作りたる点において、本邦探偵小説中興史の第一頁に特筆大書すべきである。