蟹江町の交通編

街道や船運、鉄道などの歴史を紹介します。

信長街道(信長・家康出世街道)

須成地区には織田信長が蟹江から清洲攻めの際に通ったと伝えられる「信長街道」と伝えられる南北に通る古道があります。この街道は、須成からあま市七宝地区・大治町・あま市甚目寺・萱津地区を経て清須に至る街道で、明治20年12月『須成村外四ヶ村戸長役場・地誌取調帳』には、「往古ハ清洲城ヨリ蟹江城ヘ通スル道路ニテ旧名御倉街道又ワ栗栖街道ト称ス 然レカ是ナルヤ知ルカラスト雖モ故老ノ口牌ニ残リ」、地元の古地図(年代不詳)にもやはり蟹江城と清洲城を結ぶ「清洲街道」と記されています。後世、いつしか清洲城と蟹江城を結ぶ、須成地区は信長と縁が深いということから「信長街道」と言われるようになったようです。余談ですが、信長死後、天正12年(1584)、「小牧長久手の戦い」の最終戦(雪辱戦)である「蟹江合戦」では、蟹江の変の急報を清洲城で受けた徳川家康は、松葉砦(大治町西条)から戸田へ本陣を移す時に須成に立ち寄り、須成神社神官寺西三郎大夫に対して、このように問いかけたと神谷存心著『小牧陣始末記』には記述されています。

「此須成村、剣宮ノ社二寺西三郎大夫ト云フ者アリ此者、蟹江二烟リ先キ見ユルニヨリ、是ハ、只事ナラズトテ、須成辺ノ百姓共混乱スクレバ、右社人神前ニ参リ、幣ヲ取テ念ジケル其処ヘ、神君御通リ、掛カリ御覧有リテ、汝ハ何ヲ念ズルト、上意アリ、右社人申上ケレハ、蟹江二烟先キ相見エ候故、此所何卒異変ノナキ様ニ念ジ奉リシト申上グル夫ハ奇特ナ存念、其方ハ蟹江ノ案内可仕ト有リテ、則チ御案内申上グル、此社人蟹江ノ北、今村迄奉送・・・」とあり、ある意味「家康街道」と名付けても良いと思われる古道です。家康が天下を取ったのは、「蟹江合戦に勝利したからである」との評価があり、永禄生まれの京都の医者江村専斉の雑話を、伊藤坦庵(宗恕)が記録した『老人雑話』(正徳3年)序文には、「志津ケ嶽の軍は、太閤一代の勝事、蟹江の軍ハ東照宮一世の勝事なり・・・」と述べられています。いずれにせよ、この古道は、信長・家康にとって縁起の良い「出世街道」でもあるので別名「信長・家康出世街道」とも云われています。

現在、蟹江から清須に至る古道については、江戸時代以降の河川改修や土地改良により地形が変化し、一部消滅した部分があるようで定かではありません。蟹江町内でも須成善敬寺以南については、江戸時代の蟹江川改修工事(河川付替え)により蟹江川で分断されたようで、以南は往来が無くなり廃道になったと思われます。

JR関西本線・蟹江駅

JR関西本線です。明治28年に名古屋~草津間が全通する約半年前の5月24日、名古屋~前ヶ須(弥富)間が開通した際に設置されました。当時は蟹江停車場(蟹江すてんしょんば)と言われていたそうです。この線の前身は、私鉄「関西鉄道」によって敷設されたものでした。関西鉄道は、草津~四日市間を完成した後、名古屋進出を考えて日本有数の水郷地帯を東西に横断する線路の敷設を企てました。その関係で、南北に流れる河川及び水路を跨ぐ橋梁の建設、水害から線路を守るための築堤建設が必要とされました。ところが沿線地域では、排水や農作業が困難になるとのことから反対運動が行われるところが続出したようです。当町でも西之森村から愛知県知事宛「線路敷設反対請願書」が提出されています。このような困難もありながらも何とか完成。5月24日の開通前の21日に行われた「開通記念式」では沿線各駅で盛大な祝賀行事が行われたようです。関西鉄道は、その後路線を途中の柘植から西へ延ばして奈良へと到達して大阪鉄道を合併吸収し、名古屋~大阪湊町(現JR難波)を本線として、現在の関西本線の路線が完成しました。明治35年と37年には当時の官設鉄道(現東海道本線)との間で名古屋~大阪間の旅客争奪(運賃値下げ・過剰サービス)合戦を華々しく展開したことはあまりにも有名です。明治39年の鉄道国有化法により国鉄に編入され、長らく国鉄関西本線として蟹江町北部地方の足として重宝されました。

ただ国有化以後の関西線は、東海道線の支線扱いとされあまり重要視されず近代化が遅れました。後発の近鉄名古屋線との競争に勝つことが出来ずに長らく電化されず、複線用地は確保されていますが単線のまま現在に至っています。なお蟹江駅のホームの煉瓦は、開通当時のものだと言われています。この駅の設置のため、蟹江町は駅周辺の土地一町歩を関西鉄道に寄付したとのことですが、当時の鉄道に対する期待というものを理解することができました。橋脚なども機関車の大型化により大正時代に改修された物がありますが、敷設当時のものも佐屋川橋脚・日光川橋脚などまだ現存しているものもあるようです。JR東海になり本数も増加、平成32年度に蟹江駅は橋上化され、自由通路が設置される予定です。

近鉄名古屋線・蟹江駅

近鉄名古屋線は、昭和13年桑名~名古屋間を前身の関西急行電鉄(関急)が開通させたことに始まりますが、その歴史は昭和3年11月、伊勢電気鉄道(伊勢電鉄・伊勢電)がこの部分の路線免許の認可を受けたことに遡ります。免許の許可を受けてから開通まで、約10年間の年月を要したのは複雑な歴史があったからです。伊勢電鉄は、明治44年に創立された三重県内の中小私鉄でしたが、次第に路線を拡大し、昭和4年には桑名~大神宮前(伊勢市)まで路線を延ばす有力な私鉄へと成長、昭和3年には関西鉄道と同じ目的から名古屋への進出を試みました。膨大な資金を要する懸案の揖斐長良と木曽川橋梁については、当時の国鉄橋梁を払い下げ受けると言うことで解決し、愛知県内の路線用地の買収に着手することになりました。この時代になると、鉄道への地域沿線の期待は、明治の頃とは一変し積極的に買収に応じる気配があったので、建設は順調に進むものと考えられていました。しかし「好事魔が多し」という諺がありますが、昭和4年に発生した私鉄疑獄事件に伊勢電鉄社長熊沢一衛が連座、7年4月には伊勢電鉄の機関銀行である四日市銀行が休業して、伊勢電鉄自体が経営困難に陥り、債権者の管理下におかれることとなりました。この伊勢電鉄の経営難を救済するために、名古屋の名岐・愛知電鉄(現名鉄)、大阪の大阪電気軌道(大軌)とその系列会社参宮急行電鉄(参急)などに出資の要請がなされる事になりました。二転三転した結果、三重県知事の斡旋により、当時大阪(上本町)~伊勢(宇治山田)へと着実に路線を延ばして、名古屋進出を目論んでいた参宮急行電鉄との合併ということになりました。

伊勢電が有していた名古屋~桑名間の免許は昭和11年に新たに設立した関西急行電鉄(関急)が譲り受け、名古屋地下駅、約130カ所にのぼる橋梁建設など難工事の末、昭和13年6月26日に開通、同時に関急蟹江駅が設置されることとなりました。この開通により、名古屋から大阪上本町まで約3時間程で結ぶ新たな路線の誕生でしたが、それぞれの線路の軌間(レール幅)が異なっているため、当初は江戸橋、後に伊勢中川で乗り換える必要がありました。戦中、合併により会社名が近畿日本鉄道と改称され、駅名も近鉄蟹江駅となりました。昭和34年9月の伊勢湾台風により壊滅的な打撃を受けた名古屋線を「禍を転じて福となす」として一挙に大阪線・山田線と同じ軌間に改軌を決意、12月から名古屋・大阪間に新造のビスタカー(Ⅱ世)による直通運転を実現し、その後も全線の複線化など輸送力を増強して並走する関西本線(単線・非電化路線)を凌駕するようになり現在に至りました。現在でも近鉄蟹江駅は町の玄関口としての役割を果たしています。