蟹江町の史跡編

歴史の浪漫を感じさせられる蟹江城址や文学碑など、蟹江町内の史跡の紹介です。

蟹江城址

蟹江城址です。蟹江城は、室町時代の永享年間北条時任により築城されたと伝承されています。戦国時代は伊勢湾交通上の要衝地・伊勢の一向宗の砦として重要視されました。織田信長武将滝川一益により規模が拡大され、三重の堀が築かれていたそうです。城主は頻繁に交代したようですが、実質は前田一族が支配していました。海側に大手門があるなどユニークな城郭であったことが知られています。天正10年織田信長が本能寺で明智光秀に討たれた後の天正12年、豊臣秀吉と徳川家康の後継者争いの際には、蟹江城攻防戦が行われて家康は自ら出陣、豊臣方として滝川一益や九鬼水軍も参加するなど大規模な合戦が繰り広げられました。翌年の天正地震により崩壊し、廃城となり、江戸時代は商業都市蟹江本町の街並みが拡がりました。今は碑とかつての本丸の井戸跡と伝えられるものが残されているだけですです。なお、城址碑は、大正4年11月、大正天皇の御大典記念として蟹江町教育会により建立されたものです。揮毫は、須成出身の書道家神田蘇華(神田久吉)によるものです。平成24年、城址公園整備事業により現在地に移転されました。

蟹江城本丸井戸跡

蟹江城本丸井戸跡です。江戸時代の天保村絵図にも「城井戸」と記されている古井戸です。地元ではかつての本丸井戸として伝えられています。

龍照院力石

龍照院庫裡庭園前にある力石(ちからいし)、かつて村一番の力持ちを決める際に使用された石です。約100㎏近くの重さがあるようです。若者たちが力比べをする際に、この石を両手で掲げ上げたそうです。村一番の力持ちは、女衆にもてたそうです。祭の際の娯楽として、力比べは各地で盛んに行われていたようです。現在は使われることもなく破棄されるなど、現存するものは少ないようです。

新選組隊士佐野七五三之助墓碑

須成川西地区にある須成神社神職寺西累代墓所の一角にある新選組隊士佐野七五三之助の墓です。墓碑には「佐野七五三之助源重之神霊」、側面に「寺西伊豫守家班 男」と刻まれています。七五三之助は家班の嫡男として生まれ、当初寺西蔵之丞と名乗っていました。七五三之助は故郷須成出奔後、母方の姓を名乗ったようです。明治になり京都から連絡があり、この地で神葬祭が執り行われました。七五三之助の墓はこの他、京都壬生の光縁寺、同東山の戒光寺境内にもあります。

神田氏家系碑

須成善敬寺境内、蟹江川堤防沿いにある神田家系碑です。神田鐳蔵の寄付で周辺一帯が公園化される際に、神田氏を顕彰するために建立されたもので、揮毫は渋沢栄一、石碑裏の碑文は服部氏によるものです。昭和4年の金融恐慌による神田鐳蔵破産の後、公園は切り売りされ宅地や墓地などに造成されましたが、この家系碑だけは、そのまま残されたとされています。

晴明塚

晴明塚です。陰陽師で有名な安倍晴明が、この地を訪れた際に火伏を行ったと伝承されています。塚には火伏を行った際に使用した法螺貝などが埋葬されているとも伝えられています。

戸谷徳一氏顕彰碑

戸谷徳一氏碑です。三河万歳とか知多万歳という伝統芸能をご存知ですか。正月の目出度い芸能なのですが、尾張万歳の内、この西尾張地域では、明治の頃盛んだった「伊六万歳」があり、農閑期の稼ぎ頭だった門付け万歳でした。その役員を務められた「戸谷徳一」氏を顕彰した碑です。

源氏塚

源氏塚です。平安末期、平治の乱で平清盛に敗れた源氏の棟梁源義朝一行が東国に落ち延びる際、美濃の国青墓から養老、荷之上をとおり尾張国内海庄野間へ舟で下る途中、この一帯に点在する小島に舟を泊めてしばし休息したと言伝えられています。人々はこの地を「源氏島」と呼び、休息した跡を「源氏塚」と呼ぶようになりました。この源氏塚公園は、平成4年、当時の「ふるさと創生」事業を充て。一帯が公園化されたものです。

聖徳太子冢

聖徳太子冢(塚)と地蔵堂です。西之森北新田の戸谷孝道氏が、浄土宗総本山京都知恩院の官長となられ、名古屋城を築城した12人衆の墓がある京都長香寺を開祖されました。当地の血縁の方々も多く仏門に入り、聖徳太子信仰も厚く、聖徳太子縁の寺である橘寺の許可を得て冢(塚)と地蔵堂を創建されたと云われています。

親鸞聖人腰掛石

親鸞聖人腰掛の石です。伝説によれば、親鸞聖人は小舟で知多郡横須賀(現東海市)から蟹江に渡り、その際に村人が集まり、この石に腰掛けながら野天説法を行ったと伝えられています。

忠霊塔

腰掛石に隣接するのが忠霊塔です。昭和17年7月、戦没者慰霊のために建立されました。当時は440柱の御霊が祀られました。碑文揮毫は、元内閣総理大臣の近衛文麿によるものです。

吉川英治文学碑(初代)

吉川英治文学碑(初代)です。当時、青梅に疎開生活をしていた文豪吉川英治は、中央公論社編集長を勤めた佐藤観次郎氏(後の衆議院議員)の紹介で昭和17・18年頃から戦後の一時期にかけ蟹江を訪れて蟹江地方の有識者と親交を結んでいます。この辺りは海抜0メートルの低湿地地帯が拡がり、網のように走る水路を小舟が行きかう水郷情緒が豊かな地域で、遥か西には養老の山々、北には伊吹山、北東には御岳山が見え、この景観を「関東であれば潮来の如し」と述べ絶賛、後に蟹江の水郷景観を「東海の潮来」と称するきっかけとなったと云われています。ある夜、蟹江川堤防を散策、佐屋川との合流地点(当時は蟹江川に流れていました)の堤防沿いにあった見張り小屋(密漁監視小屋)の畳部屋に入り、月を眺めながら読んだとされるのが「佐屋川の 土手もみちかし 月こよひ」の句だと云われています。昭和39年黒川巳喜氏や地元の有志により、句を詠んだ地点に句を刻み建碑されました。句碑建立の経緯については人物編をご覧ください。(画像をクリックすると「吉川英治の世界」へと移動できます)。

吉川英治文学碑(二代)

吉川英治文学碑(二代目)です。平成24年3月に蟹江川堤防から移設されたものです。建碑後、年数が経過、周辺堤防の地盤沈下や碑の劣化、そして給食センター建設による景観の変化などもあり、現在地に移転することになりました。

舟入漁業組合記念碑

舟入漁業の歴史を刻んだ記念碑です。かつて蟹江川河口部に位置する舟入地区は、江戸時代から昭和30年代まで漁業の盛んな地区として栄えてきました。伊勢湾に臨み多くの河川が流れ込んだ汽水域という自然の恵みを受け、鰻、鯔、海老、沙魚、蜆、メジロ(穴子)、海苔などの魚介類が豊富に獲れ、特に鰻と蜆は大産地として有名でした。昭和25年頃には、漁獲高が海部郡で第一位を誇りましたが、昭和34年の伊勢湾台風後、防潮堤防建設や臨海工業地域の埋め立てなどで漁場を失い、昭和39年、漁協協同組合は、明治35年に組合が発足してから63年間の歴史を閉じることになり、かつて漁協事務所があり、競りが行われていた魚河岸橋近くに、蟹江漁業の繁栄を後世に伝えるため記念碑が建立されました。