尾州海東郡蟹江本町村鈴木四郎左衛門家の世界

鈴木四郎左衛門家と蟹江との関わり

江戸時代から海東郡蟹江本町村(現在の海部郡蟹江町城)に居宅を構えた鈴木四郎左衛門家(以下「鈴木家」という)は、江戸末期、第十一代四郎左衛門重声が尾張藩に提出した「由緒書」及び大正時代の「郷社神明社昇格紀念帖・鈴木系抜鈔」の記述によれば、先祖は紀伊国藤白(現和歌山県海南市にあり藤白神社は全国の鈴木氏発祥の地とされている)に住して穂積氏(後に鈴木氏)を称し、南北朝時代に南朝側の忠臣として活躍した楠木正儀を始祖とする。戦国時代になると紀伊国から伊勢国(現三重県)に移り、四郎左衛門盛重の代には三河国(現愛知県東部)に拠点を構えたようである。なお、「鈴木家抜鈔」には、「三州堺村」と記述されているのだが、その正確な地域については不明である。

その子五郎兵衛重宗の代に至り、織田信長に仕えるため尾張国を訪れ、外戚である佐久間駿河守信正を頼り、天正10年(1582)年に蟹江本町村へ移り住んで蟹江城主佐久間正勝に従った。戦国騒乱の風雲を望んで流転の末、蟹江に土着した重宗は、鈴木家にとり「中祖」として位置づけられている。鈴木家にとって転機となった事件が天正12年の「第四次蟹江合戦」であった。この戦いは、天正10年の織田信長死後、天下統一をめぐる争いであった「小牧・長久手の戦い」で惨敗を喫した豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の雪辱戦として行なわれた戦いである。重宗には、喜右衛門重安、小兵衛重治の二人の息子が有り、蟹江合戦の際、城主不在の中で豊臣方に寝返った前田長定に反対し、当時、清洲にあった徳川家康に蟹江の変を知らせるために屋敷に火を放って焼いたといわれている。兄重安はこの戦いのために戦死し、弟重治は馬を駆けて清洲に知らせたとされている。その際、家康から直接、褒美として愛用の槍を賜ったとされ、現在も鈴木家(蟹江家)家宝の一つとして大事に保管されている。蟹江合戦後、勝利した家康は、重治の功を賞し、兄重安の戦死を哀れんで蟹江城内一角に、合戦の戦利品である九鬼水軍の軍船用材を与えて鈴木家居宅再建をさせたと伝えられる。この屋敷は、代々鈴木家主の居宅として使用されが、平成14年(2002)に取り壊された。なお、居宅の屋根瓦には旧蟹江城主であった佐久間家の紋章「■家紋番号2892【九つ割三つ引き図柄/引両(ひきりょう)」が彫り付けられていたが、それは親族であった佐久間家への義を尽くしたことによるものとされている。

さて、兄重安の後を継いだ小兵衛重治は、兄の通名である「喜右衛門」を名乗り、「小兵衛」の通名は、鈴木家当主の幼名として使用されるようになる。第四代重勝からは通名を「四郎左衛門」と代々継承し、明治に至り姓を「蟹江」と改めてからは明治、大正、昭和時代の蟹江町政などにも深く関わった。

尾張藩政時代の鈴木四郎左衛門家

 鈴木家由緒書によれば、天正12年(1584)の蟹江合戦後、重治は、徳川家康から仕官の誘いを受けたとされる。重治は丁寧にこれを断り、そのまま蟹江本町村に住み着くことになる。これ以降も家康との繋がりは続き、慶長5年(1600)年の関ヶ原の戦いの際には、再度家康から仕官の誘いがあったとされている。重治は、これも断り、以後尾張徳川家藩祖義直、第二代光友からは家康との縁もあり、「仕官しないが、特別な家柄」として特に厚遇され、蟹江本町村にあって、海部南部の新田開発や木曽御用材の流木を管理する留木御用(御留木裁許人)など尾張藩から多くの御用を勤めることとなった。四代目重勝は、藩から海西郡鎌島地区(現弥富市)の新田開発の許可を得て海部南部進出の拠点・基礎としての役割を果たした。

 鈴木家と尾張藩との繫がりが飛躍的に強化されたのは、第五代重直の時代である。重直は、鎌島新田対岸の鳥ヶ地前新田(現桴場新田)の開発を行い、筏川(木曽川の支流)両岸を押さえることで、木曽谷から木曽川を経由し名古屋へと運ぶ木曽木材を集約する「留木御用」を勤めるにいたった。この御用は、「由緒書」に代替わりごと「先代之通り相勤め」と記され、以後歴代鈴木家の「家格」を誇示する役割を果たし、御番小屋の設置、「私家来」の公認など世の声望を高め、筏川などの舟運上、川水利権なども包括した「川奉行」といわれるほどの権威と権利を収める結果となった。

また、木曽川下流のデルタ地帯で分流が入組み曖昧であった尾張・伊勢の国境画定を行い、元禄12年(1699)には、財政に困窮した尾張藩のために京都へ往復十数度に及ぶ奔走交渉により問題を解決するなどの活躍をし、以上の功績から藩主の仲介による縁組が執り結ばれるなど上級家臣並みの待遇を受けることになった。

 蟹江町内において当時尾張藩祖以来の御鷹場(放鷹場)としてあった「鳥飼地」の蟹江新田西野地内を寛文12年(1672)に藩から拝領し、これを新田開墾したのも重直の代である。これを機会に「鳥飼地」は、鈴木家が開発関与した鳥ヶ地新田に移転された。

なお、この時代に尾張国内外に轟いた鈴木四郎左衛門重直の功績とその「きも玉(度胸)」の大きさを囃した次のような歌が伝わっている。

  見たか  見て来たか  大きなものみたか

     かにえ四郎左の  玉見たか 

鈴木家の新田開発について

 鈴木家の発展を支えたのは積極的な新田開発事業から得られた莫大な収益であった。尾張藩は、藩財政を豊かにするために、藩士が自分の給地内での池や川を自分人足で開発する「給人自分起新田」の他、商人や地域の有力者に土地開発の権利金(御為金)を納めさせ、新田の開発許可を与える「町人請負新田」制度を奨励した。開発者にとっても、新田開発は、権利金を納めたり、人足、資材の調達、堤防の築き立て、田畑・水路づくりの造成事業、塩害対策などに多くの費用を必要とされたが、造成が成功すれば、暫くの年数は年貢一切が免除(鍬下年季)され、収穫できた作物は、年貢を納めることなく毎年小作料として徴収できるので有利な事業であった。鈴木家は、藩許可の元、海部南部において以下の四つの新田開発を行なっている。

○鎌島新田(弥富市鎌島)

 慶安元年(1648)に重勝の代に、当地の木村忠兵衛先祖と協力して開墾した新田で、同3年検地、両家が地主となり経営を行なっていた。天保3年(1832)までは、鈴木家が免割(年貢の割当)などを実施していたが、以後は地主4名(2名が追加)と合議の上執り行なうようになった。

○鳥ヶ地前新田(同市桴場)

 延宝6年(1678)重直が、尾張藩に開発を願い、金3,200両余り投じて同8年に完成させた。地名は、鳥ヶ地新田の堤防外(前)に拡がっていた葭山約60町(59.5ha)を干拓して出来たことによる。開発者に因み、「四郎左衛門新田」とも称されていた。新田内には、天和3年(1683)から享保11年(1726)まで尾張藩の御材木番所が置かれていた。鎮守の素盞鳴神社は寛延3年(1750)に西之森村源氏島から遷座された神社である。

○西野新田(蟹江町大字蟹江新田)

当時、蟹江新田の鹿島・芝切・西野地区は、海岸に近く、周辺が葭原に覆われて鳥や魚が生息するには絶好の場所であり、尾張藩主が好んだ鷹狩の好適地で、鷹の餌を飼う「鳥飼地」でもあった。藩祖義直、二代光友も非常に鷹狩が好きで、この地に何度も足を運んだとされている。その度に、蟹江本町村にある鈴木家の居宅に立ち寄り休憩所とされ、鈴木家も尾張藩公特別の「御成りの間」を屋敷地内に用意して対応していたようである。寛文12年(1672)光友から、いままでの数々の功績により賜ったとされている。

  松名新田(弥富市)

  享保11年に重春の代に、鎌島新田木村忠兵衛、佐野治右衛門、名古屋益屋町銭屋喜兵衛先祖が開発し、延享元年(1744)に検地が行なわれた。

留木御用(御留木裁許人)に就任

鳥ヶ地前新田が完成した延宝8年(1680)、年初の御目見(年頭拝謁)を許された重直は、藩命により木曽川留木の取締役である留木御用を勤めることとなった。当時、尾張藩領である木曽山々から切り出した木材は、錦織(現岐阜県加茂郡八百津町)の番所にて筏に組み立てて木曽川・佐屋川・筏川を経て熱田の白鳥材木所又は堀川へ送られていたが、風雨・洪水などの自然の猛威には勝てずに、途中で筏が破損して木材がバラバラに流散することも多かったようである。当時「木曽の木一本、首一つ」といわれ、私的に拾い、勝手に処分すれば厳しい罰を受けるほどであったという貴重な木材を、荒天ながらも一本ずつ下流で回収・管理(盗木・流木監視と追留)する職務が「留木御用(留木裁許人)」である。

天和3年(1683)尾張藩が、鳥ヶ地前新田内の筏川添いに「御材木番所」を立て、「御用」を拝命した重直は、留木裁許人として勤めることとなる。

留木御用の具体的な内容は、(1)番所の足軽を指示する。(2)「私家来」に番所御用懸けを申し付け、足軽の見廻り、その補助を行なう。(3)「私家来」に筏を組みかえを行なわせる。(4)風雨の際は、筏を鳥ヶ地前新田に滞留させる。(5)洪水の際は人足を召集し、流木を追わせる。(7)追木に出る船には船鑑札を渡して取り締まる。(8)各地の留場へ私家来を派遣し、留木の欠数を調べさせる。(9)諸事謹方の義は書面を以って公儀へ申上げる。などである。これは「流木追留め」の一切の仕事を監督・指揮し、足軽の指図、村方人足の徴発、追木船の取り締まりなどを行なう格別な権限を尾張藩から与えられ、同時に筏川全体の漁船、網場など「水(船運上と川水利)の支配権」をも含むものと解釈されている。藩の御材木番所は、元禄年間(1688-1704)、下流に大宝新田が造成されたため、享保11年(1726)に廃止され、扱う留木の量も流路の変化もあったのか時代を下ると少なくなったようであるが、「留木御用」については、重直以降、代々四郎左衛門の栄職として世襲することとなった。

「由緒書」には、延宝8年から嘉永5年(1852)までの間、留木総数31,170本、桴1,475乗追留したと記されている。

昭和57年(1982)蟹江町歴史民俗資料館刊行の『青少年版・郷土かにえのお話』には、留木御用の内容について、次のような記述がある。

「私の先祖は、鈴木四郎左衛門とは、鳥ヶ地前新田百姓代として関係があり、その信任が厚く大水が出ると筏川べりに立ち、流木の監視にあたりました。昼間は「留木御用」の旗を立て、夜は提灯をつけて見張ったということです。流木が引き揚げられると堤防に積み上げて水をきり、その後、乾いたところで兵の焼印を押し、鈴木家の指図を待ったということです。」

鈴木から蟹江に改姓

尾張藩から多くの特権を与えられた鈴木家は、江戸時代後期以降、藩政の状況悪化とともに、少しずつであるが利権の縮小を余儀なくされるに至った。その典型的な出来事には、次のようなことがあげられる。まず享保11年(1726)の藩木材番所の廃止にともなう船運上の収入にかかる船鑑札の縮小・廃止である。次に、天保3年(1832)の「海西郡鎌島新田並び走新田永久約定為取替証文」によると、鎌島新田内における免割(年貢割付)は、開発当初以来鈴木家が行なって来たが、鎌島の庄屋所(木村忠兵衛ら3名)と隔年に行ない、免定や村用張の本紙も庄屋所に預かり置くことにしたなど大幅な権限の譲歩を行なった。また、「留木御用」職世襲にともなう尾張藩への冥加金上納や、財政に窮した藩への経済的及び人的な奉仕(献金や労力の提供)など多くの困難をともなった時代であった。

寛政4年(1792)第十代襲名以降は、二代続いて幼主が相続し、幼年の故をもって後見を山田藤左衛門(鳥ヶ地前新田庄屋)、木村忠右衛門(鎌島新田庄屋)、服部弥兵衛(荷之上庄屋)、佐野治右衛門(松名新田庄屋)らに仰ぎ、蟹江本町村の鈴木家として対外的に勢望がやや衰えた時期でもあった。

時代は幕末、財政危機にあった尾張藩は嘉永年間(1848-1854)にそれまでの借入金一切(約82万7千余両)流しを断行、異国船の来航と打ち払い論の高まり、藩内でも「勤皇派」と「佐幕派」の反目があったなど非常に不安定な時代を迎える中で、第十一代重声は、時代の波に逆らうことなく、地方の名門として鈴木家の存続を図るために腐心することとなる。

近代に入り、西洋化、廃藩置県、四民平等や戸籍法の実施など世の中が大きく変化する中で、明治以後鈴木家は「蟹江」と姓を改め、鈴木重声は、蟹江史郎と名乗ることになる。明治23年(1890)4月作成の「愛知県貴族院多額納税者互選名簿」によれば、蟹江史郎は県下第15位であり、同年6月10日、愛知県庁で互選会を開き、第1回貴族院議員に選出されて明治30年(1897)まで在職した。

史郎の長男である蟹江次郎は明治22年(1889)10月、初代蟹江町長に就任し、蟹江銀行設立にも関わるなど、当町の政治・経済に大きく寄与した。次男重寅は、次郎の後に蟹江家当主を継承し蟹江神明社社格の昇格運動などにも携わった。三男の蟹江冬蔵陸軍少将は、大正時代郷土の英雄「蟹江少将」として有名であり、蟹江町歴史民俗資料館には少将が儀式、大礼の際に着用した大礼服や軍帽が収蔵されている。

太平洋戦争後、農地改革が行なわれ、蟹江家は所有していた多くの農地を手放すことになったが、時代は変われども人々からは「蟹江さま」と敬われた。史郎の孫である蟹江猶弓が第十二代蟹江町長に選出されるなど、今日も海部南部地域の名望家として連綿と続いている。