新選組隊士佐野七五三之助の世界

佐野七五三之助の生家である寺西家は、父の家班まで37代にもわたる須成神社を始めとする近郷五十三ヵ村(五十の倉という姓名語源でしょうか?)の鎮守を統括する神職家で、熱田大宮司から二度までも嫁を迎えたほどの家柄を誇り、家班は初め河内守と名乗ったが、後に伊豫(伊予)守と改め、宗源宣旨を受けて従五位を称したとされています。明治維新後姓名を五十倉と改め、子寺西采女(伊豫守三男・七五三之助弟・高明叔父)も五十倉瀧江と改めたということだそうです。七五三之助は家班の嫡男として生まれ、当初寺西蔵之丞と名乗っていました。昭和4年に出版された「加藤高明」(加藤伯伝記編纂委員会)と昭和3年の「加藤高明伝」(加藤高明伝刊行会)によれば、高明の母(ひさ・久子)は、寺西伊豫守家班の長女とありと記されています。明治3年正月34歳で没。つまり七五三之助の妹(七五三之助と高明は伯父と甥の関係)ということです。寺西家の屋敷は、龍照院庫裡東側にあり、「須成天王社」周辺を描いた『尾張名所図会』でも一部が描かれ、かなり大きな屋敷地であったようです。濃尾地震で被災後、取り壊され、五十倉家の没落とともに龍照院の境内地となり、現在は大相撲名古屋場所の際、高砂部屋の名古屋宿舎として利用される敷地周辺にあったとされています。

新選組屯所が置かれた京都壬生の八木邸です。七五三之助は入隊後、この界隈で活躍しました。以下の詳細は、後日紹介したいと思います。

会津藩邸で自刃したのち、葬られた壬生光縁寺です。

京都東山の戒光寺です。後に伊東甲子太郎とともに改葬されました。

現在、地元が輩出した偉人を偲んで、毎年2月に須成神社から信長街道を通り、山田酒造まで有志により「新選組パレード」が執り行われます。