蟹江町の歴史編

歴史的な出来事などを紹介していきます。

蟹江城

蟹江城は、伝承によれば鎌倉幕府執権北条高時息子、時行の孫である北条時任により築かれたとされています。室町時代は尾張国守護である斯波氏が修築し、城郭を形成したといいます。戦国時代に城郭規模は、「尾張古城誌」などの文献によれば東西54間(97m)、南北50間(90m)、本丸の他、二の丸、三の丸を有して、周囲には三重の堀がめぐらせたと云われています。この戦乱の時代、尾張の国を治める重要な拠点として何度も攻防戦が行われおこなわれたようです。天文年間には渡辺源十郎、その子与三郎は蟹江城に住み長島の一向一揆と好を結んで、城の防備を固めたようです。天文から永禄にかけて、尾張国統一を目指す織田信長が佐屋川の合戦に勝利し、城周辺を支配下におさめました。永禄年間、織田信長の命を受けて臣下である滝川一益が蟹江城を改築し、防備を更に堅固にしました。織田信長の長島一向一揆征伐には、蟹江城から多くの軍船が調達されて出航されたようです。天正10年、織田信長により蟹江城及び支城である大野城、下市場城、前田城を次男織田信雄の家来である佐久間駿河守正勝に与えたましたが、城代は、愛知郡西部から海部南部一帯を実質支配している前田氏、当主の前田長定が務めることになりました。

蟹江合戦前史

天正10年、天下統一を目前に本能寺の変により織田信長は家臣である明智光秀により討たれてしまいました。信長死後、次男信雄が尾張と伊勢の領主となります。信雄は、清須の他、長島城を根拠にして両国を収めましたが、信長後継者を巡る争いに巻き込まれることになりました。賤ヶ岳合戦後、それまで同盟を結んでいた羽柴秀吉との関係が悪化していきます。これは信長の息子である自分こそが後継者であるとの自負があるのにも拘わらず、時代の流れは秀吉に傾き、やがて家臣である秀吉が自分を家臣のように扱うのではないかとの疑心から、次第に父信長の同盟者であった徳川家康に接近し、秀吉と争う姿勢を鮮明にしたことから再び戦乱へと進み、ここに「小牧長久手の戦い」が始まります。天正12年、序戦として北伊勢方面から戦いが始まり、やがて尾張国内へと戦火は飛び火、小牧城を包囲した羽柴軍は戦局の硬直状態を打破するために家康の根拠地である三河方面へと兵を進めますが、長久手の戦いで家康軍と戦い、主将池田恒興、森長可が討死するなど大敗を喫してしまいます。秀吉は、天下統一するためには、家康に対して何処かで雪辱する必要がありました。そこで狙われたのが蟹江城です。当時、信雄は長島、家康は小牧から引き揚げ清州に在城、その中間にある蟹江城城主の佐久間正勝は信雄の命により伊勢萱生へと出陣して留守を守るのは、旧城主滝川一益と親しかった前田一族の長定で、支城である前田城と下市場城も息子や弟が城主として支配していました。かねてより前田一族と親しい滝川一益は、ここで長定などに羽柴側への寝返りを働きかけます。この調略が成功し、前田一族は羽柴側へと寝返ることになりました。ここで実行されたのが蟹江城占領作戦、これが後に「蟹江合戦」と伝えられている大規模な攻城戦が繰り広げられることになりました。 

決戦!「蟹江城」攻防戦

天正12年6月、一益は九鬼水軍の将九鬼嘉隆とともに、大船10隻に兵3000余を率い、蟹江沖に到着、小船に乗り移った一益ら約700の軍勢は、長定の手引きで首尾よく蟹江城に入城、同時に下市場城、前田城2支城を占領することに成功しました。しかし、支城大野城主山口重政は、母を人質に取られていながら、長定らの内応の誘いを拒絶したため九鬼水軍は大野城を攻めるために満潮時を狙って、大野川を遡り大野城に押し寄せました。重政は、九鬼水軍に城から松明数百本を投げ込み応戦、水軍は狭い川で身動きつかめずに船火事、座礁、転覆など大混乱状態となり、ほうほうの態で沖へと逃げ去りました。折しも、清須で蟹江の急変を知った徳川家康は、「長久手の勝事、今は水の泡」と言い、浴衣のまま馬に乗って出陣したと云われています。松葉砦に到着した家康は、徳川四天王の一人である井伊直政を蟹江舟入に急行させ、いち早く河口に柵をめぐらしたため、九鬼水軍は蟹江城、下市場城への通航を断たれ、兵員は城下に入城させながら物資を運搬することができない状態となりました。やがて徳川家康・織田信雄連合軍約9000余が蟹江周辺に到着し、蟹江城を包囲、支城の下市場、前田両城が次々に落城して一気に形成が逆転することとなりました。孤立状態となった蟹江城では、一益以下の城兵は勇戦してよく持ち堪えたましたが、次第に武器兵糧が尽き、家康側から昼夜の呼ばわり攻めもあって士気も落ちてくるようになりました。秀吉側からの援軍の望みも絶たれた一益は、遂に降伏し前田長定の首を差しだして蟹江城を退去し、約3週間にわたる戦いは、家康側の勝利に帰す結果となりました。この戦い以降、秀吉は軍事的作戦で家康を圧迫することを断念し、外交戦に切り替え、まずは織田信雄との単独講和に成功しました。戦いの名分を失った家康は、2年後の天正14年に天下の形成を察して秀吉に臣下の礼を尽くし、小牧・長久手の戦いは名実とともに終わりました。結局小牧・長久手の一連の戦いは、戦術では家康が勝ち、戦略では秀吉が勝ったと云われています。なお、江戸時代の識者の間では「賤ヶ岳の軍は太閤(秀吉)一代の勝事、蟹江の軍は東照宮(家康)一世の勝事」と評価されています。