不木をめぐる人物達

恩師日比野寛との関係

「日比野寛」 昭和34年 愛知一中会 日比野寛刊行会 P76~P78 体育への熱意  小酒井不木

 後年、医博となり、不木と号して、得意の文才を駆って、探偵推理小説に驕名を馳せた不木小酒井光次は、明治40年に愛知一中を卒業している。在学中を通じて学業は抜群だった。常に試験課題の答案には、名論卓説をもって衆に擢ん出ていた。この課題は、後に「即席課題」または「気根培養試験」といって、国語、漢文、数学に学級とは係りなく課題を出して、生徒の実力を試すことを目的とした。日比野の独特の教育方針の一つで、成績優秀なものには、賞状を与えて表彰したものである。

 小酒井は、そんな風であったから、いつも活気に乏しく、蒼白い顔をして机にかじりつく部類であった。日比野は、小酒井の陰気な姿を気にかけ、なんとかして、陽気な性質にたたき直してやろうと、或日彼を校長室に呼びつけ、「健康のため、野球部にはいれ、」と命令した。内気な小酒井は、校長の命令を断ることができず、心ならずも野球部員として名を連ねることになったが、遣る気にならんのか、生来無器用なのか、どのポジションをやらせてもてんでものにならなかった。その頃の愛知一中野球部は、第二黄金時代に入っていた時であったので、日比野は、頭の良い小酒井にキャプテンをやらせることにした。

 日比野の体育は、およそこのようなものであった。

 小酒井不木については、尚、次のようなこともあった。

 小酒井が、愛知一中の四年級になった一学期に、彼は父を喪った。そのため、老年の義母との二人暮しになった。彼の父は、彼を法科に進学させるつもりであったが、その死後、義母はほど遠い都へ彼を手放すことを心配して、どうしても進学を許さなかった。当時は名古屋に高等学校のなかった時であるから、中学卒業後、高等学校に進むために旅へ出ることを極端に嫌った義母は、小酒井の向学心を挫くことにつとめた。

 これを耳にした、日比野は、義母である人に説いて「息子を手許から放したくなければ、医科に進ませたらどうか、医専ならこの地にあるのだから他郷へ出す心配もない。」と勧めてみたが、小酒井自身が、大学への進学を熱望していたため、義母の進学措止の気持ちには一向影響されるところがなかった。高等学校受験手続きの期日は次第に迫って来るので、小酒井は、とうとういたたまれず、学校へ行って、校長を訪ね、己の決意の次第を語った。そのとき、日比野は、「ともかく、願書だけは出しておかなくてはいかぬ。」といって直ちに入学願書を書かせたが、その日が願書の締切日に当っていた。

 名古屋から、最も近い高等学校は当時三高あるのみであったので、願書を郵便で送ってはどうしても間に会わない。どうしたものかと途方にくれていたとき、幸いにも、矢張り同じ様な理由で出願が遅れていた、同級の友人(後に北海道大学教授になった三輪誠)が来合わせたので日比野の計らいで、小酒井の願書も持って京都まで行って貰うことにした。

 小酒井は、後年、肺結核に冒されたが、医家の立場から、これを克服することに心血をそそいで、「闘病術」という新語を作り、また一書を著わした。生を守り命を保つには、勝たねばやまぬ強い意志が必要で、感情から意志を沮喪させないためには、摂生、養生、自疆、治療につねに闘病の精神を持たねばならぬとして、自ら実践大いに効果を挙げ、一時の重態も持ち直し、その間、自宅に研究室を設けて、後進のために文字通り身をもって医学上の研究指導に専念し、いくつかの研究論文の発表をさせることにより、斯界に益するころも大きく認められていた。彼の不屈の精神こそは、往年日比野から親しく受けた、不断の精神教育のしからしめるところであったにちがいない。

 

同上書 P105 愛知一中の運動部 野球部

 日比野が選手は運動さえやれば良いという主義の人だと考えるものがあれば誤りで、常に選手の学力の低下を心配して、各年級の一番か二番の優等生を野球部マネジャーに任命し、選手の勉強の杖としたことを考えるならばよくわかることである。小酒井不木、三宅儀太郎、杉田襄、福田憲三、服部健三、大木喬之助、小島憲、小沢章一等、歴代のマネジャーは皆素晴らしい優等生で日比野は必ず優等生でなければマネジャーに任命しなかった。優等生なるが故にマネジャーに任じ、野球の練習をさせた。マネジャーのいいつけには下級生は勿論同級のの選手もよく従った。


新青年編集長 森下雨村からの書簡

○大正12年1月16日付け

 森下雨村書簡

 

 過日ご注文のお品、給仕を派遣して買ひ集めさした侭お送りしたので、お気に召したかどうかと心配しています。仰だったら買ひなおしてお送りしましょうか。無責任なことをするとあとで気がとがめます。

 

 何卒ご遠慮なく仰有ってください。今後のご用事とも。別便鈴木いふ人の犯罪論と探偵雑誌をお送りします。古い出版で無論古本ですが、大分久らく本箱に曝してあったので買ったばっかりの古本とはちがいます。何しろ古いものですが、部分的にご参考になるかと思ってお送りします。 

 探偵雑誌は例により好くなっていますが、これは電車の中と寝床でよむことにしていますので、悪しからず。 

 wigmoreという米国の犯罪学者のthe Principles of Judicial Proofという本を昨日丸善で買って来ました。千何百頁の大著で犯罪の証跡に関する理論とその実例を無暗に沢山列挙した本です。家内がとうとう眞物になったと云って笑っていますが、事実の列挙だけに理論は皆目解りませんが、面白いと思って読んでいます。今少し読んでみて殺人論の参考になるようだったら、お送りしましょう。 

 夜の冒険を待ち兼ねています。都合により四月号から掲載してはとも思ってゐます。今度から連載物は少し読み応へのするように沢山頁をとったらとも考えてゐます。それから江戸川君二銭銅貨と今一篇四月号へ載せようかと思っています。お頼みしておきました御批評何枚でもよろしくお書きくださいまし。四月号は創作探偵小説号と銘を打つことにしました。議論に亘ってもよろしく創作ものの初めへ「二銭銅貨」紹介旁々の御感想五六頁もお書き下されば大変に御結構だと思います。(これは甚だ勝手なお願いですが)。 

 御令閨(れいけい)様に初めての御挨拶をお伝えくださいまし。    

 

              森下岩太郎 

                      一月十八日

 

 捕物帳は断念しました。持ってそうな友人二三に聞合してみましたが、誰も持っていませんから。

 

 小酒井光次様

 

*書簡は個人蔵


江戸川乱歩との出会い

「不木全集第12巻 身辺雑記」P217~P220

 「はじめて江戸川氏の作品に接したのは、大正11年の夏頃ではなかったかと思う。『新青年』の森下氏から同君の『二銭銅貨』と『一枚の切符』を送って来て、日本にもこれほどの探偵小説が生まれるようになったから、是非読んで下さいとの事であった。早速『二銭銅貨』を読んだところが、すっかり感心してしまって、森下氏に向かって、自分の貧弱なヴォカブラリーを傾けつくして、賛辞を送ったのであった。そうして『二銭銅貨』が発表されたときには、私の感想も共に発表された。これが縁で江戸川氏と文通することになった。時々長い手紙を寄せて同氏は私を喜ばせてくれた。その後ポツリポツリ氏の作が『新青年』に発表されるごとに、私はむさぼり読んで、江戸川党となった。関東大震災の後…私は、江戸川氏にむかって、探偵小説家としてたってはどうかということを勧めた。…『心理試験』を読んで、私は、何というか、すっかりまいってしまった。頭が下がった。もうはや、探偵小説家として立てるも立てぬもないのだ。海外の有名な探偵小説家だってこれくらい書ける人はまづいないのだ。…私は、大いに待った。十四年の一月、とうとうやって来た。初対面の挨拶に頭の毛のうすいのを気にした言葉があった。私たちは大いに語った。江戸川氏は、これから書こうとする小説のブロットを語った。」

 「同氏はこのとき、頻りに私に、創作に筆をそめるようにすすめた。私も、創作をして見ようかという心が、少しばかり動いて居たときであるから、とうとう小説を書くようになったのである。『女性』四月号が出た『呪われた家』がいはば私の処女作であった。」

「ところが江戸川氏は、いつ逢っても、もう探偵小説は下火になりはしないか、行き詰まりではないかということを口にしている。然し私は、いつでもそれを打ち消して楽観的な見方をした。同氏のように、いはば精巧極まる作品を生産する人が、そのような憂いを抱くのは、当然のことであり、私のような、無頓着な、荒削りの作品を生産するものが楽観的態度をとることは、当然のことである。然し、江戸川氏は、そういいながらも、先から先へと立派な作品を生産して行く。この点は、天才に共通なところであって、私は、氏が、行き詰まったとか、書けないとか言っても、もはやちっとも心配しないのである。探偵小説ことに長編探偵小説はこれからである。すでに『一寸法師』に於いて、本格小説の手腕を鮮やかに見せた氏は、きっと、次から次へと、大作を発表して、私を喜ばせてくれることを信じてやまない。」 


江戸川乱歩への書簡

 ○大正12年7月3日付け

 小酒井不木書簡

  御手紙うれしく拝見しました。ご親切な御言葉を切に感謝します。森下さんから「二銭銅貨」の原稿を見せて頂いたときは、驚嘆するよりも、日本にもかうした作家があるかと、無限の喜びを感じたのでした。私の眼に誤りがあるかもしれませぬけれど、あなたには磨けば愈光る尊いジニアスのあることを認めて居ります。どうか益々つとめて下さい。「創作のために費やさるる時間の少ない」といふことは如何にも残念ですが、あなたのやうな見方で人生を観察さるる方は「無味乾燥」な生活のうちにも題材は得られませうから、怠らず心懸け下さるやう御願ひします。

 

  私はドストエフスキーが大好きですが「カラマゾフ」や「罪と罰」にはやはりあなたの仰しやるやうに探偵小説的色彩の多いために、引きつけられます。語学などは仰せの通り暗号を読むと同じ気分になって始めて興味が湧いて来ます、私は高等学校時代に梵語をかじって見ましたが、限りない面白味を感じました。一時は辞書のない言語で書かれた記録を読む学問(広い意味の考古学)を研究して見やうかとさへ思ひましたがたうとう医学を修めるやうになってしまひました。然し幸いに動物実験といふ楽しい探偵的の仕事をするやうになってから、多少なりとも好奇心を満足させられましたが今はかうして静養して居る身の実験室から遠ざからねばならぬやうになりましたから、探偵小説や犯罪学をかじってせめてもの慰安として居るような訳です。どうかこれからどしどし立派な作品を生産して私を喜ばせてくださいませ。

 

 「恐ろしき錯誤」発表の日は待ちかねます。「赤い部屋」は出来上がりましたら是非拝見したいものです。今後はこれをご縁によろしくご交際を御願ひします。

  とりあへずご返事迄。

           七月三日午後

                   小酒井光次

   平井大兄

 

○大正14年2月12日

 小酒井不木書簡

 御手紙拝見しました。御親父様の御病気レントゲンだとて決して保証は出来ぬのですから先日も申しましたとほり、只今の治療を父上様の御気向くだけさせてあげて下さるのが、最もよいことと思ひます。そして出来るだけ御心を慰めてあげて下さい。それより外に何とも致し方がないと思ひます。

 

 さて「苦楽」の投稿は申すまでもなく翻案ものでほんのその場かぎりの読み物に過ぎません。ところが先日あなたに逢ひ又かねて「女性」の切なる依頼があったので、「呪われの家」といふ五十枚程の純創作を四月号(一ヶ月後即ち三月中旬発表)に寄せて置きました。碌なものではありませんが、是非読んで下さって御批評を仰ぎたいと思います。

 

 よく日本では探偵小説を書くに家の構造が向かぬとか何とかいふ人がありますが、日本人の生活の中からもいくらも探偵小説の種は見つかるぞといふことを示すため・・・といっては少し誇張ですが、兎に角理論よりも作品で示した方がよいと考へて作って見たのです。一週間ばかりの間に考へて書き上げたので随分缺点が多いのですが、「女性」でも相当な取り扱ひをしてられるようで探偵小説のために多少の気焔を挙げてたいと思って居ります。兎に角これから私もあなたの後についてーいやついて行けぬかもしれませんが、創作をボツボツ発表したいと思います。

 まだこのことは森下さんにも申上げなかったことで、いづれ近日森下さんにも委しく書くつもりで居ります。

 どうか今後も出来るだけ相扶けて下さって、日本に於ける探偵小説を開拓したひと思ひます。・・・先日申上げたとほり作品が過剰に御出来になったら、いつでも申越してください。及ぶ限りのことを致しますから。

 

 各とりあへずご返事迄

     二月十二日    光次

          平井大兄

*両書簡とも個人蔵


耽綺社の盟友国枝史郎について

  「不木全集第15巻 読後感」P389~P392

 「初めて私が国枝史郎氏の作品に接したのは今から五年ほど前である。その頃私はパリで再発した宿痾(しゅくあ)を郷里へ持ち帰って、すっと寝床の上にいたが、講談倶楽部に連載された氏の作『愛の十字架』は次の号が待たれたほど面白かった。…その後だんだん、私の健康が恢復して、いわゆる『新講談』をしきりに読むようになってから、私はサンデー毎日の特別号などに発表された氏の作品にだんだん引きつけられたが、遂に『大鵬のゆくへ』を読むに至って、すっかり魅せられてしまい、国枝崇拝者の一人となった。その後、氏の作品は、手の及ぶ限り眼をとおさずには置けないことになったのである。」

「何でも、昨年の五六月頃、国枝氏が名古屋に居られることを聞いて、一度お目にかかりたいものだと思っていると、幸いにも七月の下旬、ブラトン社の川口氏の紹介で名古屋ホテルで会談すること翻載されたイー・ドニ・ムニエの作品のことを言い出すと、意外にも氏の口から、あれは翻訳ではなく、舞台を外国に取って物した創作を、翻訳の形で発表したのに過ぎないと聞いてびっくりしてしまった。そうして私は自分の探偵眼の鈍かったことを悲しむと同時に、探偵小説においては氏が私たちの先輩であることを知って一層尊敬の念を増し、なお、それらの作品において、心ゆくまでに出し得た氏の才筆と異国情調を羨んだ。」

「それ以後、私は氏と交際を願って今日に及んで居るのである。そうして、僅かに一年たらずの間に私はどれだけ文芸に関する薫陶をうけたか知らない。私は昨年の春から、はじめて探偵小説の創作を試みるようになったが、最初のうちは氏に大へん叱られた。しかしそのうちにまぐれ当たりで一つ二つ多少見るべき?作品を書いた時、氏は激賞して下さった。最初に叱られて居ただけ、私の喜びは大きかった。爾来私は氏の批評を聞くことを唯一の楽しみとし、又、唯一の指針として創作に筆を染めて居るのであって、もし今後私が作品らしい作品を生産することが出来たならば、それは全く氏のお陰であるといってよい。」

 「文人としての国枝氏は、その潔癖さに徹底しておられる。だから氏は文章を非常に苦心される。氏の文章が音楽的であること…たえず『進化』ということを念頭において居られる。文章に対して潔癖を持つ氏は作品に対しても同様であって…ある人が氏の探偵小説『銀三十枚』に感心してかかる優れた作品を生むのは氏の人格の然らしめるところであろうといったのは私は大いに賛成である。全く『文は人なり』という言葉は氏に対して最もふさわしいものである。」

「氏の文章は一つのリズムであると同時に一種の力である。氏の作品もまた一種の力である。氏の作品を読んで、ひしひしと胸に迫って来るある力を感じない人は恐らく一人もあるまい。その感じは爆裂弾を投げられた感じである。そうして、この感じは氏に接しているときにも起こる。氏はこの力で自己の病を征服し、世を征服しようとして居られる。だから、ある人は氏を評して爆弾の如く痛快な人だといった。又ある人は氏を評してとても愉快な語人だといった。まったく氏と語って痛快を覚える人はあるまい、そうしてその後に何物かを氏から投げ込まれて居ることを気づかぬ人はあるまいと思う。」

「氏のこの性質は、氏が信州人であるということを知れば一層よく理解することが出来ると思う。氏に接するとき私はいつも、雪に覆われて剣のように尖っている信州の連山を思い起こす。」

「氏の空想の豊富なことは嘗て私はナイヤガラ瀑布の水量にたとえたことがあるが、その豊富な空想を自由自在に駆使して、而も手に入った木曽を中心とし、今度名古屋新聞に連載小説を発表さるることになった。こう言っただけでももうその作品が如何に面白いものでかは察せられるであろうと思う。『木曽風俗聞書薬草採』の予告が一度名古屋新聞にあらわれるや、国枝氏の崇拝者たちから毎日幾通となく編集局へ書状を寄せて、喜びを申し出たということであるがまことに尤もな事。諸君!待ちたまえ今暫くの辛抱だ。書きたいと思うことの十分の一も書かぬうちに、はや予定のページは尽きた。何だかとりとめのないことを書いてしまったが、これも、まさに発表さるべき作品にはや魅せられた証拠だと思っていただきたい。」