ふるさと蟹江のこと

「小酒井不木全集 第8巻 自伝」P338~P355       

     

 別に深い理由があって自分の過去を書くのではなく、ただ書いて見たくなったから書くにすぎないのである。これといふ波瀾も曲折もなく暮らして来た私の過去など、読む人にとっては定めし興味も少ないであらうが、書く方では、くだらない随筆などよりも、幾分かは力が入ひる訳だから、まあ我慢して読んで貰ふことにしよう。寅年に生まれた私は寅年を前に控へて過去を振かへり、今更ながら平凡な三十六年間の記憶を文字に写して、すっぽり私の身体から切り離し、新しい年と共に多少は生き甲斐のある生活がして見たいと思ひ立ったのではあるが、さて、この自伝がいつ迄続くことやらわからず、新しい年に入ってからも所詮は過去にかかづらってあたら光陰を棒に振っていまふのがオチであるかもしれない。

 明治23年10月8日というのが戸籍原簿に載っている私の生年月日であるが、これが果たして正しいかどうかといふことは私自身にもわからない。然し正しくても正しくなくても私は何の痛痒を感じないのである。いっそ果たして生年月日などはわからない方がどんだけのんびりした気持ちになるやらしれないと思ふのであるけれども、今更どうにも仕様がないから我慢して明治二十三年を生年月日と定めて置かうと思ふ。天海僧正は、他人に年齢などといふものは不要なものである。不要であればこそ、人間の身体には年齢を数へるに足る身体的特徴といふものが具はって居ないのである。植物にあるものは、年齢といふものがあって、年齢を知るに足る特徴となって居る。これとても植物の生存そのものとは何の関係もないのであって、所詮生物には年齢は余計なものである。

 なまじ年齢が知れて居るために、やれ二十五歳は厄年だの、やれ丙午の女は三人の良人を殺すのだと心配をせねばならぬことになる。年齢さへ知れなかったら大学教授の停年制もなければ、自由結婚の年齢制限もなくなる訳である。第十八世紀の頃、欧州各国を股にかけて上流の人々を手玉にとってあるいたサン・ゼルマン伯はいつも人に語って、齢二千歳だと言ひふらしたものだ。

『ああキリストか? 知ってる知ってる。一度御宮で逢ったことがあるよ。あんまり大法螺を吹きなさるなと忠告してやったんだが、何しろ年が若いものだからたうたう磔刑に処せられてしまった。実に可哀さうだったよ。今から思ってもぞっとする。』

と、かう、彼はいつも尤もらしく語るのであった。あまり尤もらしい話し方をするので、ある人がサン・ぜラマン伯の従者に向って、

『御主人がキリストに逢ったと御話しになるけど、ありやーたい本当のことですか?』とたづねると、従者はすまして、

『さあ、そのことはよく存じませんねえ。何しろ、私が御世話になるやうになってから、まだたった三百年にしかなりませんから…』

 何と痛快極まる話ではないか。戸籍簿さへなかったなら私が五十歳だといったとて或は通用するかも知れない。或は又三十前だといったとて人は信用してくれるかも知れない。いや五十歳だの三十前だのといふさへ野暮な話である。年齢などがあるためにそれにかまけて、人間は安逸な生活を貪りたがったり、或はまた早老に陥ったりするのだ。孔子さまのやうなえらい人でも、三十にして立ち四十にして惑はずなんかと御しやるものだから、四十になっても惑ひに惑って居る連中までが惑はぬつもりで居たりして、とんでもない滑稽な悲劇を演じかねないのである。

 いや、生年月日のことから思はぬ方面へ話がそれてしまったが、要するに私は明治二十三年即ち西暦千八百九十年に生まれたことになって居るので、戸籍面によれば私は第十九世紀の人間である。千八百九十年といへば、ドイツの医学者ローベルト・コッホが始めてツベルクリンを作った年で、その年に生まれた私が、ツベルクリンと縁の深い結核に罹ったのも、思えへば奇しき運命といひ得るのかも知れない…と書くと馬鹿にセンチメンタルな気分になるが、これといふのも生年月日といふことのあるためである。だから私は生年月日そのものに愛想がつきるのである。

 

    

 生まれた月日は戸籍でわかっているけれど、さて、私は何処で生まれたかということを実ははっきり知らないのである。私が育った家は愛知県蟹江町大字蟹江新田字宮ノ割六拾四番地であるけれど、何でも私は名古屋で生まれたということを、ほのかに聞いているのであって、名古屋のどの辺で生まれたということはさっぱり知らない。故郷の村の老人にきけば知って居るであらうが、、別にそれを知らなくたって飢え死にもしないし、又法律上の罰をも受けないのできいて見ようといふ気にならないのである。知れぬことは知れぬことにして置いた方が、どれ程神秘でよいかも知れない。うっかり生まれた場所を知って幻滅を感ずるよりは知らない方が遥かに気持がよい。

 単に私は生まれた場所をはっきり知らないばかりか、私を産んだ母親をも知らないのである。母親を知らぬといふのであって又母親を知らぬといふのであって、母親の名や母親の生家などについてはかすかに知って居る。又母親の顔を知らぬといふのは母親の顔を一度も見ぬといふことではなく見たかも知れぬけれども記憶にないといふ迄である。その母親は先年死んで私に非常に逢いたがっていたようであるけれど、私は逢いたいとも何とも思わなかった。ただ名を聞いて居るだけではたとひ生みの親だといはれたところが、なつかしい感じが起こったととしたら、それはただなつかしさを装った感じに過ぎないのである。俗に「生みの親より育ての親」という言葉もあるが、私がなつかしいと思うのは、育ての親より外にはなかったのである。

  よくは知らぬが、事情があって私は生まれ落ちるとすぐ、蟹江の田舎に引き取られ、実父と継母の手に養育されることになったらしい。

  父はその時52才、継母は41才であった。父は田舎の小地主で、自分も農業に従事し、かたがた役場に勤めていたらしかった。が、この辺のことも自分にははっきりして居らぬのである。母には乳が出なかったから二里あまり隔たった村から来た乳母の乳によって私は育てられたのであるが、その乳母は私が三つの年に腸チブスに罹って死に、もとより私はその顔を記憶して居ないのである。父は私の16才の夏、継母は25才の冬に死んだので、何といっても継母は私にとっての最も大なる恩人であり、今に至るも継母の記憶が最も多く私の頭脳を占領しているのである。

 父の老年の時分の子であるから、私の記憶に残っている父は「老人」の一語に尽きる。頭のつるりと禿げた、あから顔の人で私は小さな時分、父親といえばどこの父親でも必ず頭の禿げているものだろうと思ったりしていた。その禿げた頭の中から考へ出して、父は私に「光次」という名前をつけた。何からヒントを得てつけたのかわからないが、嘗て一分金を見て、その一面に光次という名前が刻まれてあったので父は二分金からヒントを得たかも知れぬと思ったことがあるけれど、これも最早知る由がないのである。たしか高等小学校へ行く時分だったと思う父の晩酌の席に座して、

『父さん、何故僕に光次というようなへんな名をつけたんですか?』(方言をつかって書く方がよいけれど、近頃では当時の私のつかって居た言葉を忘れたから、以下、なるべく標準語で書く)と聞くと、

『へんでないよ、ひかりつぐだからいい名じゃないか』と答えた。「光り次ぐ」が何故よいのか私には今でもわからないけれど、別に抗議を申し込んだところで、どうにもならぬのでその時私は追求してたづねなかった。昨今、私も段々頭の毛が薄くなって来たのを見ると、とうやら「光り次ぐ」という言葉の意味がわかって来たようであるけれど父親のように光り出すまでにはまだ当分時間があるだろうと思って安んじて居るのである。いずれにしても、私の名の出どころもかくの如く頗る曖昧で、私の出発点に於いては凡ての事情が曖昧の中から生まれ出て、曖昧の中に死んで行くものは私一人ではあるまいと思う。

 

     

 臍の緒を埋めた場所が何処であるかを、前に述べたやうに、私は少しも知らぬのであるが、とに角、生まれ落ちると間もなく蟹江在の家に育ったことは事実だあるらしく、

                 光次は業平よりも色男

と川柳の誉めた光次ならぬぶ男は、日光川と称する川の水で磨かれて、そのぶ男振りを発揮したのである。人間の性質が、生まれた土地の形成によって、多少の程度に影響さるることが若し事実であるならば、平凡な田舎に育った私は勢い平凡にならざるを得ないのであって、事実平凡であるところをみると、土地の影響というものは案外馬鹿にならぬものであろうと思う。見渡す限り一面の平野、いわゆる濃尾の平原の南端にあって何の奇もない風景にはぐまれては、到底優れた人物にはなられそうもないのである。その上五六百年も昔には海の底だったというのであるから、いよいよもって浮かばれない。源義朝が熱田へ殺されに行った途中に立ち寄ったという島の名残なる、源氏島という村が近所にあるが、それも本当のことか嘘のことか、見ている人がないからはっきりとわからない。また義朝が通過したぐらいで、後世その土地からえらい人間がでようとは思われぬ。遠くに見えるのが鈴鹿山麓、それから西北にかけて、多度山、養老山、伊吹山、北には加賀の白山(?)、東北隅には信濃の御嶽山、その前方に小牧山、それから東にかけて三河の段戸山、猿投山。山といえば先ずそれくらいのものでどれ一つ人間の心をふるい立たせるものではない。

  家の東側を流れて居る、幅50間の日光川は、人工的に掘って作られた用水の一種で、両側の土手には碌な松さへ生えて居らぬ。おなご竹、すずき、茨、からす瓜、その他雑草。でも秋になると尾花が穂を見せて月が静かな水面を照らすなど一寸美しくはあるけれど、やっぱりどこにもありふれた景色だ。川には蜆が盛んに繁殖するが、魚類はさほど豊富ではない。二三度私は鯊を釣ったことがあるが、大した収穫はなかった。然しさすがに、蟹江の名に因んでか、蟹は随分沢山居る、土手から川へ移り行く部分には豆粒ほどの小さな蟹がぎっしり穴を掘って居る、甲の平べったいのではなくて食うことの出来ぬ、いたづら蟹だ、即ち何のお役にも立ちがたいのは、さすがに土地にふさわしい代物だ。蟹があまりにも多すぎるためでもあるまいけれど、二百十日前後の暴風には度々土手が崩れて、青田がざんぶり塩水を浴び、農民の一ヶ年の労苦が水の泡に帰する。小さい時に私は水入りを大いに喜んだものだったが、今思って見ると決して喜ぶべき現象ではないようだ。

  日光川には幅三間ばかりの小さな支流があって、それがやはり私の家の傍を流、その流れが各所の池と結びついて、その池が養漁の場所となって居る。いな、ふな、こい、もろこ、うなぎなど、平凡なものばかりだ。魚類と同時に両棲類、爬虫類も相当に繁殖して居るが、これは別に養って居る人がないようだ。蛇、とかげ、ひきがえるなど、たとえ平凡な田舎の人間にもさほど気味のよいものではない。蛇の中ではやはり青大将が一番多く、たまには烏蛇も居るようだが、小さい時から私は、あまり蛇には興味をもたなかったので、立ち入った研究をしたことがない。家鼠とどぶ鼠は可なりに繁殖し、百足やげじげじも遠慮なく子孫を殖やして居るが、百足が、蚊帳の中へはいって居たりするのは少々閉口だ。蚊が多くマラリアも少なくない、蛾やウンカも可成りな跋扈振りを示して居る。雀、乙鳥、烏、就中烏は多いようだ。時々色々な食物を烏のために失敬されることがあったと記憶して居る。村は百姓ばかりで、鶏を飼う家は可成りあるが、豚や山羊を飼う人は、私が生い立った時分には絶無であった。人々はただもう農業に全力を尽くしていた。全力を尽くしたばかりでなく農業を楽しんでいた。その頃を思って今の農村の状態を眺めて見ると、誠に隔世の感があるといってもよい。過去二三十年の間に於ける農村の変化は、誠にすばらしいものであったといってもよい。何が一たい変化の原因となったか、其主因はまあ農村研究者の説明にまかせるとして、私は青大将の殖えたことをその一つに数へて置きたいと思う。そして私は農村研究者に向って農村問題を研究するには、青大将の研究を怠ってはならぬことを忠告して置きたいと思う。なお序に、青大将は田舎ばかりでなく、都会にも多いことを附言して置きたいと思う。一寸広小路を散歩しても可なりに居るやうだ。何とかして黒大将にならぬものかしら、いっそ白大将で居てくれればなお更よいが…。

 

     

 父は私が物心ついて以来村役場につとめ、長らく村長をして、晩年には郡会議員に選ばれたりしたが、どんな役を勤めても、決して農業を捨てなかった。五六町歩の田畑を所有して居て、勿論その全体を自作することが出来なかった大部分は小作人に作らせていた。従って一方ではいわゆる地主であったが、自ら田面に出て耕作していたので、農民の生活状態は十分知って居た。然し父は、別に農民の生活を研究するとか、或いはその他野心をもって農業に従事するのでは決してなかった。即ち父は農業に従事したくてならぬので従事したのであって、換言すれば、父は「百姓」が好きで好きでならなかったのである。父は毎日午後4時半から晩酌を始め、7時半に食事を終え、8時に入浴して、すぐ就寝し、午前4時に起き朝食前1時間半に田面を一まわりしてくるのが習慣であった。これは勿論役場から帰るとすぐ、田面着に着替えて、鍬を肩にして、田面に出かけたものである。稲が段々成長していくのを毎日眺めに出ることは、農業に従事するものに取って、この上もない喜びであるらしい。これは我が子の生長を喜ぶ親たちの喜びに比すべきものであろう。豊作を喜ぶ父のにこにこ顔を私は今でもはっきり思い出すことが出来る。又、父は畑作りにも非常に興味をもっていたばかりでなく、瓜や西瓜を作ることに極めて秀でて居た。父はすてきに大きな西瓜を作り上げて村人の賞賛を博し、心からうれしがるのが常であった。村人が昼寝をする時間を選んで、村人に知れぬように「しめがす」を西瓜畑に運び、別に肥料を与えないでも、こんなに大きくなったよと、他愛もなく村人を欺いて得意がったりすることもあった。西瓜でも、瓜でも、暇さえあれば手入れして「うらどめ」に余念なく、思うとおりの見事なものを作り上げた。かつて掘り抜き井戸の水が里芋を著しく生長さすることに気づいた父は、一体どれぐらいの大きさの葉を作り上げることが出来るだろうかを試すため、毎日一定量の掘抜井戸の水を約30歩ばかりの芋畑に汲み上げて与えたところ、葉の直径4尺5寸葉軸の長さ6尺に達せしめることが出来、人々の度胆を抜いた、然し、葉の割には芋の出来がよくなかったので、二度とその実験を試みなかったが、その大きな葉の茂った畑の、物凄いような光景を、私は今でも忘れることが出来ないのである。

  父は別に新しいものを試植することに力を入れなかったやうであるが、私が落花生を非常に好むことを知って、一畝ばかり、始めて落花生を植えつけたことがあった。落花生が段々と生長して行くのを毎日のやうに、楽しみ眺めて居た父は、ある日、母や私に向って

『落花生といふやつは恐ろしい力があるものだ、あの柔らかい枝から一本づつ細い枝が出て、それがかたい地の中へつき刺さって行って、その先に実がなるんだよ』

といって、さもさも珍しい発見でもしたかのように物語った。豌豆や小豆や大豆ばかり作って居た眼には落花生の結実状態が、よほど意外なものであったにちがひなかった。

 父は養蚕に非常に興味を持った。繭の大きなのを創ことに就ては左程興味を持って居なかったらしいが、出来上った繭から糸を取ることが頗る巧みであった。私は一度も自分で糸を取ったことがないがないから何ともいふことは出来ぬが、繭を煮る火加減とか、その他色々な点で相当技術を要するものらしく、父はそれを見事にやってのけるのが常であった。だから一度も繭を売ったことはなく、出来た繭は悉く父の手によって生糸に代えられるのであった。又、蝶々を育てて卵を生ませるといふやうなことも一度も試みなかった。多分自分で生ませた卵よりも、買った卵の方が質のよいことを知って居たからであらう。

  農繁期ことに収穫の時期が来ると父は随分勤勉であった。先ず毎日午前3時に起きて、カンテラの火影で、俵を編むのだ。そうして非常に手早く、且つ非常に巧みに造り上げるのであった。ある夜父が俵を編んで居ると、表に人の足音が聞え、やがてポンと戸口を蹴った。父は

『誰だツ!』

と怒鳴ったが、そのまま足音は消え去った。その翌日隣村の其豪家に、昨夜強盗がはいったという報をきいて、父は自分の家の戸口を蹴ったのはたしかにその強盗だったと判断し(後に強盗が捕らえられて果たしてそうであるとわかった)『一生懸命仕事すると盗難さえ免れることが出来る』というのであった。

  

    

 収穫の時の父のうれしそうな顔は今でも忘れることが出来ない。稲を苅る、ハサにかける、稲こき女にこかせた籾を庭いっぱいムシロに干す、よく乾いた籾を土臼にかけて下男たちと挽く。塵埃が雲のように立つ中でカンテラの光のそばで土臼を挽きながら土臼歌を歌う声はまざまざと私の耳の底に残って居る。父は声がよかった。若い時分に高座へあがって音頭を演じたこともあった位で、機嫌のよい時は、いつも「傾城阿波の鳴戸」を音頭できかせてくれるのであったが、そのよい咽喉で土臼歌を歌うのであるから、いうにいえぬメロデーを冬の夜の澄んだ空気に響かせて聞くものの胸を躍らせた。コーゴーという土臼の音が父にとっては又とない喜びであったのだろう。その喜びから迸るこえはすべての人を喜ばせずには置かない。そうして一しきり仕事をすると風呂にはいって塵埃を荒い落としまだ醒めきらぬ酒の酔をもって寝床の中にもぐりこむのであった。  

 あまりに塵埃が多いので私は土臼部屋に入ることが稀であったが、土臼で砕かれた籾を金どおしにかけるときにはつねに手伝った。金網を瀧のようにすべって行く玄米の流れは見て居るだけでも心地よく、手に触れる米の感じも又となく、快いものである。

 米というものは味覚だけで取り扱っては勿体ない。玄米の中に手を入れたとき始めて米の尊さがわかるなどと考えたこともあるが、玄米の光沢と手ざわりとを真に理解することが出来たなら、玄米を白くするのは実に勿体ないことだと思う。往古日本人は玄米を食したものであるのにいつの間にか白米にすることを覚え、脚気のごとき風土病に苦しまねばならぬことになった。脚気が白米をたべるために起こるか否かの問題はまだ完全に解決されて居らぬけれど、とにかく米ヌカの中にはヴィタミンBが存在することであるから、玄米を白くするのは勿体ないといはねばならない。本来玄米を取り扱う農民はあの玄米の美しい姿を見て、玄米を食うて然るべきであるのに今は大抵の農民が白米を食べて居るようである。

  いや話がとんでもない横道にはいったが、兎に角玄米に触れるということは、いい感じのするものである。父がにこにこして金どほしをするそばで私はうれしがって米をかき寄せたものである。集められた米は後に俵に収められる米を俵に入れることは誰が始めて考察したかわからないけれども、兎に角米を貯えるには最も適当な方法であるらしい。俵の中へ米を入れてから足で踏み踏み縄でしめる勇ましい姿を見て居るのは気持ちのよいものである。百姓も一種の芸術だ。作られた俵をすぎなりに積み上げて眺めるとき、恐らく凡ての農民は芸術家がその作品の完成を見たときのような、何ともいへぬ満足な感興を覚えるに違いない。私の父もこの時の嬉しさを味ははんがために、農業をいそしんだのかも知れない。

  勿論父は勤勉することそれ自身に興味を持って居た。父は一刻もじっとしては居られない性質であった。そうした父の性質を幸いにも私自身は受け継ぐことが出来た。私はこの性質を父に感謝せざるを得ないのである。私は今、重い病を抱いて居る。重い病を抱いて居りながら病気に相手になって居れないほど、仕事に忙しい仕事をすることそのことが、いふにいへぬ愉快な気分を生ぜしめるからである。一日筆を持たぬ日があるとどうもその夜は寝付きがよくない。従って病気が重るような気がしてならない。人は度々私に忠告してもう少し筆執ることを少なくしてはどうだと言ってくれるけれども、それは私の性質を十分理解してくれないからであって、病人はなるべくぼんやりして、安静にして居た方がよいという伝統的な療養法によって私を律しやうとするのは抑も無理である。『好きな仕事を一生懸命すれば病気はなおる』これが私の療養生活のモットーである。これが現代の医学上の学説と抵触しようがすまいが私はちっともかまはない。何となれば私の病気は私の病気は現代の医学では治らぬのであるから。

  いづれにしてもかうしたモットーを私につくらせたのも、そのもとはといへば父の勤勉な性質にあるといってもよい。67年間父は肉体上にも精神上にも、随分愉快な活動を続けて死んで行った。

 

     

 私の父はウィットとユーモアに富んで居た。面白おかしい話をして、人を笑わせることが好きだった。いつも下男や下女と一しょに御飯をたべるとき、先づ自分だけ早く食べて、それから、面白い話をして下女を笑わせることが好きだった。箸のころぶのさへ笑わずに居れぬ若い女のこととて、父が話をしだすと彼等は吹き出してしまって、とてもその場で食べて居れず、膳をもってほかの室へ行って食べることがしばしばあった。それを見て父はますます興に乗って面白おかしい話をした。父が一ばん好んで話したのは、源氏物語の中の嫁と姑に関する話だった。ある仲の悪い嫁と姑があった。姑が死んだとき、内心嫁はうれしくてならなかったが、見舞いに来た人に向かってきまりが悪いので、ひそかに茶碗の中へ水を汲んで来て、その水で眼をうるほして、涙と見せ、しきりに悲しむふりをして挨拶した。ところが取り持ちに来て居た人々は嫁のこのトリックを発見し、そっと後ろにまはって、茶碗の水の中へ墨汁をたっぷり注ぎ込んで置いた。かくとは知らず嫁は水をつけては泣き、つけては泣いた。見舞いに来た人は嫁の顔が熊のやうにまつ黒になって居るのに大いに驚いたという話である。これを父が非常に巧みに手まねを入れて話すと、大抵の下女は其の場に居たたまらなくなって逃げ出すのであった。まったく父自身が茶碗の中に墨汁を入れるくらいのいたずらを仕兼ねない人であった。仕兼ねないどころか、さうゆふいたずらをすることが大好きであった。私の田舎の家には『むかで』が沢山居たが、父は大きなむかでを見ると直ちにそれを捕らへ、毒刺を除き去り、さうして、それをひそかに他人の背中にのぼらせ、

『やツ、背中にむかでがとまってる。』

と言って、おどかすのであった。おどかされた人は狼狽して、衣服をぬぎ、顔色をかへてむかでを殺すのであった。それを見て父はにやにや笑って種をあかした。父はまた頓知にいい人であった。こんな話がある。あるとき父は村の人たちと共に、津島の警察署へ出頭して競馬の許可を願に行った。その時彼等は『臨時競馬願』といふ文書を差し出さねばならなかった。然し、一行の誰もが『臨時』の『臨』の字を知らなかった。警察署の人に聞けばよかったけれども、知らぬと思はれるのも残念だからといってみんなが知慧を絞っても、さっぱり思い出すことが出来なかった。その時父は、

『よし、俺が書こう。』

といって、筆をとり上げ、硯の海の中へどぶりとつけて、さて、もやもやとした文字を一字書いた。その字はしみてしまって、どういふ字か一寸判断がつかなかった。もとより父自身も何といふ字を書いたか知らなかった。知らないどころか、それは漢字でも何でもなく、まったく文字通りにもやもやしたものに過ぎなかった。

  さてその字とも何ともわけのわからないものを書いた後父は、筆の墨汁を硯の上に拭い落として、さて二字目から誰にも読める文字で『時競馬願』と書き、それから適当な文句を書いて、差し出したのである。

   ところが、係官は、いつも文字のちがひなどをやかましく言ふのにかかわらず、何とも言はずに、それを受け取ったのである。彼は即ち臨の字がひどくしみたのだと思ったにちがいなかった。

  こうした頓知は父の日常生活にもよく見られるところである。他人と会談して居ても、話が少しこみ入って来るとじょうだんを言っては笑わせ、あっさりと片付けた。西郷従道さんが海軍大臣をして居たときのことである。ある日閣議で甲論乙駁、議論が非常に熟して互いに口角泡を飛ばしどうおさまりがつくかわからなかったとき、今まで黙って居た従道さんは突然声を張り上げて、

『団子坂の菊はどじゃろか』

と叫んだ。この意外な言葉に、一同はわツと笑って閣議に結末がついたということであるが、父もさうした策を用ふることが頗る巧みであった。

  小作人との交渉が面倒になると、父は小作人を呼び出し自分の家の中にはにこごませ、酒の勢いで、障子を隔てて怒鳴るのが常であった。怒鳴り怒鳴って、彼等が閉口してうづくまり立つ瀬を失うと、ひそかに母に合図して、彼等のそばへ行かしめ、彼等をなだめて去らしめるのであった。

*附記 「自伝」は名古屋市に於いて発行された新聞「中京朝日」紙上(大正15年1月)に連載されたものであるが、同紙廃刊のため中絶された。


「小酒井不木全集第8巻 新道話」P222~223

 私もこれに似た話を小学生時代に経験した。私の同級に佐藤吉助という腕白者があって、常々先生から「本を読まねばいかぬ」と小言を言われるので、ある時、習字の「清書」に先生をからかうつもりで、佐藤吉助と書く代わりに佐藤本助と書いて出した。すると「清書」をもらう日になって、先生は一々名を呼んで渡したが、佐藤の名を呼ぶとき、一段と声をはり上げて「佐藤ポン助」と怒鳴った。私たちはわっと笑った。さすがの腕白小僧も、これにはギャフンとまいったらしかった。

  私の父は、よく私に向かって「両親とながく一しょに住むことはむしろ不幸である。俺は生まれた年に母に死に別れ、4才の時に父を失ったが、お前は10才過ぎまでも父を失わずに居る。これは少し贅沢だ。」というのであった。その時分私は父の言葉を何気なしに聞いて居たが、今になって見ると、父の言葉はたしかに一理ある。諺にも。「可愛い子には旅をさせよ。」とあるが、これは言う迄もなく、両親の手許を離れなければ一人前の人間にはなれぬという意味であって、早く両親を失うことは、それ自身不幸なことであるけれども、考えようによってはむしろ幸福であって、人生の旅をするには、あらゆる依頼心を取り去らねばならない。


「闘病術 付録 私の病歴」P18 大正15年8月25発行  春陽堂

  ……何とはなしに父に遺訓などが思い出された。「困った時には念仏を申せ」といった父の言葉が、ありありと耳の底に浮かんで来た。私は心から南無阿弥陀仏を唱えた。

  父に在世の時分には、よく私の家で僧侶を聘して説教の座本をしたのであった。時折やって来る坊さんにNという顔の青白い人があった。別に説教が秀でて巧みであるというではないが、頗る気立てのよい人であった。

   何でも村で丁度祭礼のある時分、即ち秋の彼岸が過ぎて間もない時のことであった。丁度N氏が私の家で説教を終へて、私と座敷で物語りをしつつあった時、私は宮の祭の騒ぎを見に行こうではありませんかとN氏を誘った。何でもあまり晴れては居ない日で、N氏の顔は常より蒼白く見えた。丁度私が先に立って出かけようとすると、N氏はけたたましい咳嗽をしたかと思うと、どす黒い血の塊を口一ぱいに自分の前にある煙草盆の灰ふきの中に喀こんだ。すると其の餘沫は付近の畳の上に彼処此処に点々と散った。私はぞっとした。そしてN氏の顔を見た時、N氏は物凄い笑みを洩らして私をみつめて居た。而もN氏は私と共に祭見物に出かけようとする様子が見えたので、私は慌てて之を制した。そして絶対に安静にせねばならぬ旨を告げると、N氏は「そうですか」といった儘、其の寂しい顔にやはり一種の物凄い笑を浮かべて居た。不図私が眼をさますと私自身の胸に異常のあるのを覚えた。私は何時の間にか眠って居たのだ。


「苦労の思ひ出」大衆文芸 大正15年9月号

  別にこれ迄で苦労といふ程の苦労をしなかったには、かえすがえすも遺憾である。病気のため過去十年間度々生死の境に彷徨したことを苦労の中へ入れれば入れられぬことはないが、病気で苦しむことを一人前の苦労をして居るやうに語るのは、いはば病人の一種の示威運動である。さうして、さういふ示威運動を行って居る間は病気は決してなほるものではない。精神的の苦しみだって、苦労をしつつある間に、それを語ることは、あんまり感心しない。だが、苦労してしまったあげくの思ひ出ばなしは、一寸面白いもので、この点、読者の課題は頗る気がきいて居ると思ふ。

 私にも、一寸した精神的の苦労があった。生まれ落から義母の手に育ち、十六歳の時父に死なれ、その後母と二人ぎりの生活をしたが、その間に変な苦労をした。まったく変な苦労である。私の家は田舎で、僅かではあるが田地を持って居て、高等の学校へ行くぐらいの資産はあったのだが、母は私が中学を卒業すると、もう上の学校へはやらぬといひ出した。その時は母は六十歳であった。理由としては自分が年をくって居るし、田舎に居れば学問などいらぬといふのであった。中学の校長H先生が母を口説いてくれたけれど、母はきかなかった。で、H先生と相談して母に内密に第三高等学校へ入学願書を出すことにし、入学願書へ添へて出す金五円の受験料はH先生が取替えて下さった。

 愈よ試験を受けに京都へ行かねばならなくなった。折角中学を優等で卒業したものだから、京都へ遊び半分受験にやってくれ、試験が受かったとて行きはしないといって、やっと京都へ旅立つ許しを得た。試験には合格した。で、折角試験に合格したものだから、せめて高等学校へだけ三年間通はせてくれ、さうすれば人前へ出ても恥ずかしくないからといって、漸く母を口説き落として三年間京都で暮らした。

 愈よ三高をでた。さあ、今度は大学の段である。母は東京へは決してやらぬといひ出した。高等学校へ行くとき何といった。高等学校だけでやめると言ったではないか、三年間自分は随分不便をしのんで来た、この上四年も五年も大学へ行かれてたまるものかといひ出した。私は困った。二人ぎりだから、争っても仲裁者がなし、何とか円満に解決する道はないかと考をめぐらした。母は寂しいといふよりも、金を使ふのが余計に気になるらしかったので、大学でも一月十円ぐらいあれば暮らして行けるからといって、色々嘆願したら、たうとうそれならばといって許してくれた。

 いつも「お前のために、たんせいして貯金して置いてやるのだ」といって、銀行の通帳など、みんな私の名にして置きながら、その通帳から金の減るのが非常に苦しかったらしい。で、私も学資金は一月十円の割で貰っただけである。これでは無論参考書一冊買ふことが出来ない。仕方がないから、新聞小説を書いたり、お金持の友人に寄食させて貰ったり、大学のN先生の家に置いて頂いたりして、難関をきりぬけた。

 母は私の卒業試験最中に脳溢血にかかり、試験を終って帰郷した翌日逝去し、苦心してためた金をすっかり残して置いてくれた。尤もそのうちの大部分は、地方の銀行の破綻のために水泡に帰したのであって、母はこの銀行の破綻のために、よほど心をいためたらしく、そのため死を早めたのかも知れない。なにしろ、その金があれば、ゆうに二人分の大学の学費に充てることが出来た程だから。

 然し、私は決して無駄な苦労をしたとは思はない。若し母が生みの母であって、私のいふままに学資をくれて居たら、或はどんな不逞なことをたくみに出したかも知れないからである。さうして、年を経るままに従って、ますます母に感謝する念がまさって来る。ことに、晩年、づつと寂しい思ひをして、もう私が卒業といふときに死んで行ったかと思ふと、いぢらしくて仕様がない。

 母はよく田舎ものが学問すると、放蕩をするか病気に罹るかが落ちだといった。さうしてこの予言は不思議にも実現して、私はみごとに病気にかかった。母が生きて居たら、どんなに屡ば「それ見たことか」と言ったことであらう。母の位牌の前に立つとき、いつもそれを思って私は恥かしさのために心で苦笑するのである。

 

「小酒井不木全集第8巻 日記 」P365~P366

  大正5年1月27日

  近頃夢を見ぬ夜はない。つまり床に居る時間が長いからであるのはいうまでもない。そして自分は夢でいつも故郷が背景となって居ることを悟る。故郷…母…自分には常に離れ得ないで piece of thought である。母が恋しい。

 母が逝いてもう一年余になる。母も定めし地下で自分の生長を気づかって呉れたのであろう。自分の現在は全く母の賜である。自分は何時父と母に対する報恩の意味を具体的に示すことが出来るであろうか。両親よ、願はくば今暫しわが心を諒としたまへ。