探偵小説家小酒井不木の世界

小酒井不木の生涯

小酒井不木 本名光次(みつじ)は、明治23年10月8日、愛知県海東郡新蟹江村(現蟹江町大字蟹江新田字宮ノ割)小酒井半兵衛の長男として生まれました。不木が32歳の大正15年、中京日報に連載した『自伝』(不木全集第8巻収録)でも触れていますが、戸籍上、彼が生まれは蟹江新田字宮ノ割(大海用地区)となっていますが、実際の生まれたところは名古屋市内で、生まれて直ぐに実父のもとに引き取られたようです。『蟹江町史』によれば、彼の父、小酒井半兵衛は明治5年に蟹江新田副戸長、明治22年町村制の施行以後、明治25年から26年、同29年から33年、同34年から35年、同37年から38年の間、新蟹江村村長に就任、晩年には郡会議員を勤めるという地元でも有数の大地主でした。父は52歳、母は継母である41歳の時の子供で、継母が高齢ということももあり、世話をみていた乳母が幼少の頃に亡くなったとされ、このような家庭環境が彼の性格形成に何らかの影響を及ぼしたのではないかと思われます。

父の半兵衛に対する思い出は強烈なものがあるようで、非常に体格がよく地主としての威圧的な表情とは別に良く食事の際には、使用人に対し、顔を「くちゃくちゃ」にしてまで面白い話をしてよく笑わしたり、悪戯をして、併せて「げらげら」と大きな声をで笑ったなどど非常にユーモラスな人柄だったようです。

継母「てつ」については、「私の大恩人」と述べる一方、「生さぬ仲」との記述もあり、自分とは血の繋がっていないことを少年時代から知っていたため、あまり記述が多くないですが、京都三高への進学などの苦労話が思い出話が綴られています。『自伝』で「何の特色もないところで生まれたごくごく平凡な男」と自己評価を行いながら当時の蟹江についての様子も記述され、家の東を流れる日光川は人工的に掘って作られた用水で、川にはシジミが繁殖するが魚類はさほど豊富ではなく、地名のとおりに蟹が多いが何の役にも立たない、下手をすると堤防に穴をあける「いたずら蟹だ」、二度三度川へ魚釣りに行ったことに他、せっかくの収穫が台無しなる洪水も地主である自分の家に水が入ると、そのようなことにはお構いなしに大喜びしたとのことであると自己の立場を謙遜しながらも郷土への親しみを綴っています。

生い立ちの背景もあるのか、不木は幼少時代から非凡な才能を発揮していくことになり、大地主の息子として生まれた不木は「みっさま」と呼ばれて、何事にも特別扱い、同年代の子どもと遊ぶよりも、近くの寺で大人相手に「地獄極楽物語」を創作し、説法していたといわれ、後の作家としての素質をの一端が見受けられます。明治28年4月、新蟹江小学校へ入学。年齢からみると4歳と6カ月で入学したことになりますが、これについては、日光川の渡し舟を使って、毎日のように学校へ遊びに来ていた光次に、親しくなった校長が「坊や学校が好きか?」と聞いた際、「はい。早く1年生になりたい」との返事に、普通よりも2年早く小学校へ入学することとなったようです。当時は政府が就学について特別に力をいれている時代だったので、このようなことも可能でした。明治32年には蟹江高等尋常小学校に入学。明治36年3月に同校を卒業。すぐに愛知県立第一中学校(現県立旭ヶ丘高校、県内一の名門校)へ入学。明治39年に父が逝去し、学校を中退して地元の役場に書記として勤めることになっていましたが、当時「マラソン王」と言われた日比野寛校長は、彼の開校以来の秀才ぶりで常に首席をとおした才能を見込んで、母親を説得し、引き続き勉学を続けることができたといわれています。この時の同級生には、祖母が同じ大海用地区の出身である原田光夫(後の『子ども科学』編集長:大海用では「東のみっさま」と呼ばれていたようです)がいます。明治40年3月愛知県立第一中学校を首席で卒業した彼に人生の大きな岐路が訪れようとしていました。

明治40年4月、不木は愛知一中卒業後、京都にあった旧制第三高等学校へ入学することになりますが、この時ばかりは母てつの大反対に遭遇します。てつは、不木の進学には反対であり、理由として父半兵衛の後を継いで大地主小酒井家の当主として地元に残り、父と同様な道を進んでいくことを望んだようです。そのような立場であれば、県内一の有名中学卒業という学歴で十分であり、「田舎に居れば学問はいらぬ」というように、これ以上の学問は却って本人にとって有害であるとの考えがあったようです。この時も日比野校長が必死に母を説得、渋々であったけれども了承を受け、同級生の助けもあって受験することができ合格、京都三高へと進学できることになりました。蟹江を離れた不木は、このことから、母に遠慮したのか生活への最低限の送金を受けるだけの慎ましい下宿生活を送ったようです。後年、『苦労の思い出』には、この頃の苦労話が述べられています。京都三高時代には、二歳上の高田義一郎、浅田一(後の科学法医学で文学者)、一年後輩には古畑畑基(後の科学警察研究所長)などと知り合うことになりました。

明治43年京都三高を首席で卒業。今回も母の反対に遭いますが、東京帝国大学医学部に入学することになります。東京本郷弥生町に下宿に入ると、やはり慎ましい学生生活の中、参考代を稼ぐために京都の日出新聞社に「不木生」のペンネームで『あら浪』と題した連載小説を売り込みました。東京帝大でも首席を続け、大正3年同大学院へと進み、生理学・血清学を専攻し、研究に没頭しました。

この頃海部郡神守村(現津島市)の素封家鶴見楽太郎の長女で、東京女子高等師範学校に在学していた鶴見久枝と知り合い(不木の熱烈な一目惚れという。故鶴見典年氏談)大正4年1月に媒酌人帝大教授永井潜により両者は結婚し、不木は晴れて一家の長となりました。この結婚には母も大賛成だったようで、相手方が家柄も同じく隣町の出身であることから、これを機に小酒井家の主として蟹江へ戻ってくるだろうとの期待があったようですが、二人の結婚の前に亡くなり、彼女の期待は実現することはありませんでした。

大正4年6月、不木は永井教授の紹介で『生命神秘論』を洛陽堂から出版し、医学研究家としての著作活動がスタートすることになりました。このような旺盛な研究活動は多くの分野で「永井博士以上の天才」との評価を受けることとなり、医学者としての将来は前途洋々たるものと思われました。しかし、突然の悲劇が襲うことになります。この年の12月に”肺炎“を病み、妻と離れて神奈川県片瀬海岸で療養生活を始める身となりました。当時の医学では絶望的な状況であった闘病生活の中で、日記の中に妻への感謝とともに探偵小説家としても萌芽とも思われる「想像は創造である。自分は創造的な科学の預言者でありたい。換言すれば科学の預言者でありたい」との記述がなされています。

半年ほどの療養で健康が回復した不木は、大学院での研究生活に復帰することができることとなり、研究実績が認められて大正6年10月、27歳の若さで東北帝国大学助教授を拝命し、同時にアメリカ・ヨーロッパへ衛生学研究のため留学する機会を与えられることとなりました。同年12月19日春洋丸で横浜からサンフランシスコへと出航、アメリカのボルチモアに入り、臨床医学の現場ジョンズ・ポプキンス病院で研修、翌年3月には探偵小説家エドガー・アラン・ポーの墓参りを行っています。その後ニューヨークのコーネル大学で血清学と都市衛生学の研究に取り組みました。

大正8年6月、不木はアメリカからイギリスへと研究活動の場を移し、血清学と医学史の研究に取り掛かりました。しかし、無理な研究がたたりロンドンで喀血。南部のブライトン海岸で療養に専念、その際にイギリスのコナン・ドイルの作品に接して探偵小説の世界へと傾斜していくこととなりました。後の『文学随筆』でも述べられているように「事件解決」と「治療解明」には観察力と想像力が必要で、探偵小説を読むことは自分の医学研究にも役立つだろうと考えるようになりました。その後、一時小康を得たので、ロンドンに帰った後、大正9年パリのパストゥール研究所に席を置きましたが、再び喀血に見舞われます。同年8月に再び小康を得たのでマルセイユ経由で加茂丸にて帰国の途につき、11月神戸に着きました。彼が帰国するとのことで10月には東北帝国大学教授の辞令が出ていましたが、病が全快していないため、任地に赴くことはなく、妻の郷里である神守村で療養生活をおくることになりました。大正10年9月、医学博士の学位が贈られましたが、療養生活を続け、東北帝国大学教授の職も任地へ一度も赴くことが無く辞任することになりました。著作『闘病術』は、医学博士・結核患者として自らの”結核闘病”体験を生かしたもので、患者の立場にたった著作物として当時の大ベストセラーとなりました。なお、『闘病術』は、当時馴染のない「闘病」という言葉が一般に普及する契機となった一冊としての評価も受けています。

留学中に持病の結核の悪化により帰国し妻の郷里で療養しながら、大正9年「学者気質」という随筆を新聞に連載、以後欧米の合理的な探偵小説を紹介することによって、当時雑誌『新青年』を探偵小説的なものにと構想していた編集長森下雨村と交流が始まり、大正12年に入ると病気がやや回復したので、名古屋市御器所北丸屋に住居を新築、移転して本格的な執筆活動が始まりました。大正13年翻訳物『真夏の惨劇』以降は、「小酒井不木」というペンネームで執筆活動を開始し、これ以後多くの探偵小説家との交流も始まりました。その一人、後の大作家江戸川乱歩との出会いは、大正11年に乱歩が新青年に応募した『二銭銅貨』について、雨村が、その出来栄えから欧米の翻訳物ではないかとの問い合わせににより乱歩の作品に接して彼を絶賛し推薦文を書いたことから始まりました。まだまだ本格的は探偵小説家が誕生していない時代であり、探偵小説の将来に不安のある乱歩に探偵小説で生計を立てることを勧めた不木、そして乱歩も医学研究書の執筆やドイルやドゥーゼなどの翻訳活動が中心だった不木に熱心に創作を勧めることになり、二人の交流は日々深まっていくことになりました。

不木は、当時住んでいた名古屋を舞台として探偵小説を発表していきます。豊富な医学・科学的な知識と犯罪心理を描写した内容が主で、そのリアリティーさから「不健全派」の代表作家として位置付けられました。大正15年発表の『人工心臓』は、日本における準SF小説と名高い作品です。一方で少年が事件を科学的な知識を駆使しながら解決していくという手法での少年探偵小説『紅色ダイヤ』なども発表して、少年から大人まで多くのファンを得ることになりました。代表作品には『恋愛曲線』『疑問の黒枠』『印象』などがあげられます。また、太平洋戦争の際、名古屋は空襲により多くの古き街並みを焼失しましたが、不木の小説や随筆作品に当時の街並みや建物が詳しく描写されていることから現在、都市景観などの復元を図る貴重な資料として評価を受けています。

昭和初年頃、弟子の岡戸武平に「遊び半分の句会をやろうじゃないか。仲間を集めてくれ」とのことから始まった会は、不木書斎の扁額「拈華微笑」(仏教用語で以心伝心の意味)から、彼が「拈華句会」と名付けたもので、今も名古屋地方の文士名士の俳句愛好家が集い、活躍する場となっています。

昭和2年には、『龍門党異聞』が帝国劇場で上演され、11月には不木の提唱により合作組合「耽綺社」を江戸川乱歩、長谷川伸、土師清二、国枝史郎ら新進作家と結成するなど新たな取り組みも行っています。

一時諦めていた医学分野でも昭和3年、自宅の空き家に研究所を建て、血清学の研究も再開しましたが、無理がたたったのか昭和4年3月27日に風邪で熱を出し、病状が次第に悪化して心半ばの同年4月1日急性肺炎により惜しまれながら享年39歳で逝去しました。

 死後、不木と交友関係があった江戸川乱歩・岡戸武平らの手によって不木の遺作を編集した『小酒井不木全集』が発刊されることになり、乱歩、武平らは、かつて不木から受けた恩もあり、遺族が全集の印税で生活ができるように条件面での交渉に尽力したといわれています。不木全集は、昭和4年に全8巻が当初出版されましたが、その後増刷されて全17巻という当時としては未曽有の大全集となりました。

ペンネーム「不木」の由来

ペンネーム「木にあらず」との意味である「不木」とは一体どこから名づけられたのでしょうか。不木の著作には全くというほど、その由来についての記述がありません。僅かに死後出版された昭和4年『犯罪学研究小酒井不木追悼号』で、伯父の桑原虎太郎への書簡が紹介されているだけです。これについて興味深い資料が、現在歴史民俗資料館に展示されています。昭和2年10月15日付け、蟹江町須成の後藤道政氏に宛てた書簡の中の追伸部分に「不木とは、中学生時代に見つけたものをそのまま用いています。『初めは頭角を現さずに、後から頭角を現すのが本当の人間だ』という言葉を漢文で読み、それをそのまま雅号にしたのでございます。『不』の字に頭を付けると『木』の字になります。『不』は頭を引き込めた貌(かたち)、『木』は頭を出した形で御座います。お笑いまでに」と綴られています。当時の不木は、医学者として小説家として活躍が一段と期待されている頃で、不木の意気込みが理解できる書簡であると思われます。

小酒井不木全集出版に至る軌跡

昭和4年4月1日不木が逝去すると、歴史民俗資料館所蔵の同年4月3日付け、改造社高平始書簡に見られるように、早くも不木全集を出版しようとする動きが活発となりました。これについての経緯は、江戸川乱歩著『探偵小説40年』に詳しく記述されています。全集出版には乱歩と武平が担当することになりました。東京では、春陽堂と改造社から出版に申し入れがあり、両社に挟まれ大変弱ったようです。乱歩らは、出版会社の営業方針他、特に恩になった不木遺族が印税で生活できることを優先に考えました。又生前、不木が探偵小説の大衆的進出を唱えて作品を書きまくった姿勢を一貫してもっていたことを尊重し、その中で改造社の方が、派手で大部数主義の全集を発刊するとの方針であることから、乱歩らは次第に改造社での出版をへと傾くようになりました。しかし、春陽堂の方も不木の単行本を出版してきたとの実績もあり、なかなか強硬であったのでほとほと困り、名古屋にいた武平に遺族の意見を聞いたうえで上京させ、森下雨村も交えて出版交渉に当たったとされています。結局4月24日付けの江戸川乱歩と岡戸武平の小酒井望あて、それぞれの書簡(歴史民俗資料館所蔵)にも記されているように出版は改造社に決定、5月に第1回配本として第3巻「短編小説短編集」が出版、以降順次刊行され、ここに戦前において、日本探偵小説家では全17巻という未曽有の大全集が誕生することになりました。