水郷蟹江の人物編

蟹江町出身及び所縁のある人物を紹介していきます。

小酒井不木

小酒井不木 探偵小説家。明治23年10月8日生まれ。本名光次。新蟹江村(現蟹江新田)出身。新蟹江村村長小酒井半兵衛の長男と生まれる。新蟹江小、蟹江高等小学校、愛知県立一中、京都三高を経て大正3年東京帝国大学医学部を卒業。以後医学について研究を続け、文部省の命により留学渡航、しかし、英国ロンドン滞在中に喀血してフランスから帰国、妻の実家津島市神守で療養、大正9年の東北帝国大学教授も発令だけで赴任にはいたらなかった。大正10年に名古屋へ居を移し、文筆活動に入った。ロンドン留学中にコナンドイルの作品にふれ、以後豊富な医学知識と推理によるいくつかの条件設定のもと、黎明期、日本の探偵小説に卓越した筆の冴えをみせ、代表作「疑問の黒枠」や日本最初のSF小説作品「人工心臓」、少年探偵物「紅色ダイヤ」等の作品を発表、大人だけでなく、幅広い読者層を持った。また、後の推理小説大家江戸川乱歩の処女作「二銭銅貨」を絶賛し、乱歩の文筆活動へ様々な援助ををするなど探偵小説家を目指す後輩の育成などに貢献したことでも知られる。俳句にも情熱を注ぎ、ねんげ句会の発起人として、会の名づけ親(拈華微笑=以心伝心:仏教用語)としても有名。昭和4年3月27日風邪気味にて発症就床。4月1日急性肺炎を併発し、惜しまれつつ逝去。死後、森村雨村、江戸川乱歩、岡戸武平らの尽力で出版された『小酒井不木全集』は、当時の出版界では異例の大ベストセラーとなった。蟹江町図書館敷地内には、小学校の後輩である黒川紀章の揮毫による「小酒井不木生誕地碑」、蟹江町歴史民俗資料館敷地内には、三十三回忌の際に八事霊園に建立され、移設された乱歩揮毫による「不木碑」がある。

佐野七五三之助

佐野七五三之助 新選組隊士。天保5年須成村須成神社神職寺西伊予守家班と佐野峰子の嫡男として生まれ寺西蔵之丞と名乗る。兄弟姉妹には久子、采女、遼子、琴子がいる。嘉永3年父の逝去後、尊皇攘夷を志し、名前を佐野七五三之助と改め江戸へと出奔、北辰一刀流を学び開港後の横浜居留地の警備を行っていたが、尊王攘夷の機会を得ず、元治元年30歳の時、旧知の伊東甲子太郎(後の新選組参謀)とともに新選組隊士として上京。組内では平隊士として4番組に属した。伊東甲子太郎一派が新選組から離脱し御陵衛士となった際には、組の伊東派として残留したが、慶応3年新選組総員の幕臣取り立てに際しては、勤王の立場から抗議、組を脱退して伊東派との合流を図ったが、伊東と土方との取り決めもあって挫折し、京都守護職邸で茨木司ら4人とともに自刃。新選組隊士として光縁寺に埋葬された。慶応3年6月14日没。享年34歳と云われる。後に鈴木三樹三郎らの手によって戒光寺に改葬された。明治2年故郷須成村に伝えられて神葬祭が営まれた。天王橋西に墓がある。なお、妹久子は、尾張藩士服部家に嫁ぎ、後の第24代内閣総理大臣となる加藤高明を産んでいる。

鈴木四郎左衛門

蟹江本町村の土豪、代々当主は四郎左衛門を襲名した。天正12年の蟹江合戦で、徳川方として重安・重治兄弟が奮戦、その功もあり、徳川家康から槍と屋敷を賜ったとされる、江戸時代は尾張徳川家からも厚遇され、4代重勝、5代重直は新田開発に力を注ぎ、鳥ヶ地、鳥ヶ地前、鎌倉、松名の各新田(現弥富市)を開拓する。5代以降は、木曽木材の流木を管理する留木御用を勤めた。11代重声は尾張藩主徳川慶勝に仕えて、明治維新の際には度々相談に乗り褒美を賜った。明治5年に蟹江史郎と名を改め、以降当家は蟹江姓となった。

神田鐳蔵

神田鐳蔵 実業家。明治5年須成村市場に生まれる。父は酒造業(紅葉屋)で儒家であった神田清三郎。幼少の頃から尾張藩儒学者の森村大朴、佐藤朴山に漢学を学び、洋学を瀬尾氏(うな)に学んだ。名古屋商業を卒業後、一時家業を継ぎ、若くして海東郡酒造組合副頭取に推薦されている。明治24年の濃尾震災後、上京し震災特別減税法案議会通過運動に尽力、父が嫌った株仲介に関心を持ち明治26年名古屋株式取引所の仲買人となり、32年上京、翌33年現物専門の「紅葉屋」を開設した。その際、都会の排斥を受けるが、第一銀行の取引を得て公債取引に力を注いだ。明治35年以来有価証券の市価を掲載した英文「紅葉屋日報」を発行。明治37年「有価証券金庫銀行必要論」を渋沢栄一に陳情して知遇を得た。東京有価証券取引組合の結成に尽力した。日露戦争の時には、海外からの金融資金調達に貢献し、戦後株式市場で活躍、巨万の富をもとに明治43年合資会社紅葉屋商会を設け、従来の業務を継承しつつ、紅葉屋銀行を開業、大正7年には株式会社神田銀行を設立し、銀行を中心に倉庫・土地・生命保険など多角経営を展開。日本銀行・東京株式取引所の大株主になるなど「昭和金融界の風雲児」と云われるまでになった。しかし、昭和2年の金融恐慌により神田銀行は破産。晩年は振るわなかったと云われている。父が儒学者との影響もあり、文化的な関心も強く、日本から海外に流失しそうな浮世絵約250点ほどを一括収集し防いだ。現在、この肉筆浮世絵「旧神田鐳蔵コレクション」の大半は(財)大倉文化財団が所蔵してる。また、苦境にあった私立学校への援助を行い、財団法人化を図るなどの活動を行ったことでも有名である。昭和9年12月8日逝去。地元蟹江須成地区の善敬寺地内に渋沢栄一揮毫の「神田家系碑」がある。

林 稼亭

林稼亭 画家。文政7年(1824)4月8日蟹江新町村に生まれる。通称を源助といった。はじめ伊豆原麻谷の門に入って南宗の画法を学び、「東海生」と称し、ついで小島老鉄・村瀬秋水の教えを受け、もっぱら王摩詰らの諸大家を模し、半生は西三河を遊歴した。晩年まで作品への精進は怠らず、画友と京都大谷派本願寺への徒歩参詣の途に旅行絵巻物を完成したり、箱根山絵巻物なども描き、作画への意欲は衰えることがなかった。画号は「東海生」「黄浦」「鄭徴」「稼亭」と称した。後年、大正天皇が皇太子の折り、名古屋を中心とした大演習の総監として名古屋離宮(名古屋城)にとどまられた際、伊藤次郎左右衛門が林稼亭「山水一幅」を献上されたところ嘉納されたという。また、地元の水害復旧にも力を注ぎ、河川工事にかかる工事費に多くの献金を行った。明治38年(1905)10月26日逝去。享年82才。三河新城市某寺に顕徳碑が建立されているという。西光寺に墓がある。

山田玉田

山田玉田 宗教家。明治5年西之森に生まれる。6歳で出家、16歳で京都宇治にある黄檗宗大本山万福寺に入り修行に励み、黄檗山道永禅師、観輪禅師、五山禅師、臨済宗宗演禅師、竹田黙雷師よりそれぞれ印可を受ける。38歳で大本山万福寺の師家となり、遠く中国に渡るなど東奔西走するなかで、多くの俊才を育成、蓮行寺出身の森本三鎧を始め多くの人材を宗門に残した功績があげられる。後に黄檗宗宗務総長、更に同宗管長に就任した。昭和36年4月15日、91歳で逝去する。

森本三鎧

森本三鎧 宗教家 明治34年に西之森蓮行寺に生まれる。5歳の時に、伯父である山田玉田に弟子入りし、黄檗宗の僧になり、京都帝国大学中国哲学科を卒業後、万福寺に入って禅の修行を行う。太平洋戦争後、自坊に帰り、戦後の混乱時期は教員生活をおくったといわれる。昭和33年、要請があり57歳で黄檗宗宗務総長に就任し、それ以降14年間にわたって万福寺の経営に尽力する。宗門の経済的基礎を確立したうえ、同寺堂塔伽藍の修復、境内整備を行い、伯父玉田の悲願であった万福寺宝物殿「文華殿」の設立、煎茶文化の普及発展、能筆による書道文化への寄与など多くの実績があげられる。昭和47年に勇退、四日市の観音寺に入った。昭和54年8月、79歳で逝去する。

神田蘇華

神田蘇華 書家。明治7年(1874)6月14日須成村で生まれる。本名久吉。日露戦争後、書道家を目指して日下部鳴鶴に師事し、競書に研磨を重ね斯華会に活躍した。廻腕法執筆で知られる。県一高女に20数年勤続し、退職後は椙山高女の書道講師となり、同学園内に銅板の筆跡がある。文部省その他より教育功労者として表彰を受けた。なお、蟹江城址碑文も彼の筆によるものである。 昭和39年(1964)2月25日逝去。享年90才。

戸谷静雄

戸谷静雄 政治家。明治28年西之森の農家に生まれる。昭和21年から26年までの5年間、第10代、戦後公選初代として蟹江町長を務める。昭和22年、26年、34年、38年には県会議員に当選、昭和26年から1年間は、県議会副委員長を務めて県政でも活躍する。戦後の復興を目指し、土地改良・河川改修事業、新田開発など新しい郷土建設に尽力した。昭和39年、70歳で逝去する。

丹羽賢竜

 丹羽賢竜 宗教家。明治21年(1888)8月11日 鍋蓋新田に生まれる。11歳のとき名古屋市誓願寺で得度、16歳で僧籍に入り名古屋正覚寺道場で宗派相承、京都・大阪で住職をつとめ、大正8年(1919)に総本山光明寺に入り講師布教。24歳で宗議会議員を経て宗政運営にもかかわり、宗門あげての声望にこたえ、59歳で宗務総長を拝命した。昭和34年(1959)6月には西山浄土宗管長・総本山光明寺第75世法主に就任するにいたり、その在任中には宗祖750回忌大法要を厳修するなどした。また、世にまれな能筆家として法門指導者の滋味あふれる遺墨が残され、郷土子弟への教化のあとも残されている。昭和49年(1974)8月26日 逝去。

黒川巳喜

黒川巳喜 建築家 俳人。明治38年(1905) 蟹江新田に生まれる。東海中学を経て、名古屋高等工業学校建築科を卒業し昭和2年愛知県営繕課に務める。そのとき日光川樋門のらんかんの親柱を設計。終戦後、昭和21年(1946)に黒川建築事務所を設立した。昭和39年(1964)に亡き父の遺志を継いで、蟹江新田佐屋川畔に当地ゆかりの文豪吉川英治句碑を建碑。これをきっかけに、ねんげ句会同人となり、昭和43年からは鹿島神社境内文学苑句碑建立にとりかかり、小酒井不木、中村汀女、山口誓子など、昭和60年(1985)までに25基の句碑を建立した。ホトトギス、蟹江俳句会、磊温句会同人。著書に句集「ありったけ」「松ぽくり」があり、蟹江町子どもの森文学遊歩道に句碑を建立。建築大臣表彰、黄綬褒章、紺綬褒章、愛知県知事表彰を受ける。平成6年(1964)1月2日逝去。その後、鹿島神社文学苑にも句碑が建立された。

宇佐美江中

宇佐美江中 画家。昭和4年(1929)9月1日 蟹江本町に生まれる。昭和22年(1947)松蔭高校を卒業し、画業を志し上京、河合玉堂に師事し入門を許され、昭和32年(1957)に玉堂が他界するまで奉仕しつつ水墨を基調とした古典を学んだ。昭和29年(1954)独立。同35年   (1960)奥田元宋に師事、色彩を基調とした現代日本画を学んだ。昭和37年(1962)日展に初入選、さらに日展(秋)に13回入選(特選2回)、他に日春展にも入選、その間に各地で個展やグループ展を開催している。昭和60年(1985)度より日展無鑑査になっている。平成9年(1997)第29回日展文部大臣賞、平成16年(2004)日本芸術院賞を受賞。現在、日展理事を勤める。

加藤高明

加藤高明 政治家。万延元年佐屋(現愛西市)に生まれる。幼名は総吉。父は尾張藩佐屋代官所の手代服部重文。母は須成神社神官寺西(明治に五十倉に改姓)家班の長女久子、新選組隊士佐野七五三之助は母方の伯父にあたる。高明は、3歳から5歳まで母方の実家である須成で育ち、伯父(寺西采女:五十倉滝江)らと蟹江川で泳ぎ、魚や蜆をとって遊んだと伝えられている。7歳の時、名古屋の加藤家の養子となり、14歳で家督を継ぎ高明と改名し、上京して東京外語商業学校を経て東京帝大へと進学し、首席で卒業した。長年野党暮らしを強いられたが、大正13年第24代内閣総理大臣となり、選挙権を拡大するためにの普通選挙法を制定する一方、不安な世情に対処するため、後に世情ごとに改正され軍国悪法の元拠となったと云われる治安維持法を制定した。大正15年病をとおして行った首相施政演説の2日後に66歳で没した。

なお、明治33年と大正9年の2度ふるさとの蟹江を訪れ、墓参りをしている。

吉川英治

吉川英治 小 説 家。明治25年(1892)8月 神奈川県に生まれる。本名は英次(ひでつぐ)。父が事業に失敗し高等小学校を中退、いくつもの職を転々とした。明治43年(1910)上京、蒔絵師の徒弟となる一方、川柳の世界に入り、雉子郎(きじろう)の号で作品を発表した。大正3年(1914)講談社の懸賞小説に応募し「江の島物語」が一等に当選、その後大正10年(1921)東京毎夕新聞社に入社したが、同12年(1923)関東大震災を機に文学に専念することを決意、諸雑誌に数々のペンネームで作品を発表した。大正14年(1925)「キング」創刊より「剣難女難」を連載、吉川英治の名を初めて使用、以降小説家としての地位を固めた。昭和12年(1937)日中戦争が始まり毎日新聞の特派員として現地を視察、同13年(1938)にはペンの部隊で官軍作戦に従軍、その経験により「三国志」の執筆に至った。戦争が激しくなるなか、昭和17・8年ごろには縁者を頼って度々蟹江に足を運び、豊かな水郷の情緒を「東海の潮来」として絶賛し、俳句などの作品を残している。同19年(1944)に吉野村に疎開、終戦後は執筆活動を休止し村の生活に溶け込んだ。昭和22年(1947)に執筆活動を再開、その後「新・平家物語」、「私本太平記」などを発表、同35年(1960)には文化勲章を受章した。代表作には上記のほか「宮本武蔵」、「新書太閤記」などがある。昭和37年(1962)9月7日逝去。なお、昭和39年(1964)蟹江新田の黒川巳喜氏ら4名の有志により英治がこの地を訪れて詠んだ「佐屋川の土手もみちかし月こよひ」の句碑が蟹江新田地内の佐屋川尻と蟹江川の出合う堤防に建立された。序幕式には吉川文子未亡人、舎弟吉川晋氏、「新・平家物語」や「私本太平記」の挿絵を手がけた杉本健吉氏らが列席した。

山田耕筰

山田耕筰 作曲家。明治19年(1886)6月13日、東京市本郷(現在の東京都文京区)に生れる。明治32年、姉を頼り岡山の養忠学校に入り、西洋音楽の手ほどきを受ける。大正6年(1917)渡米し、カーネギーホールで自作を中心とした演奏会を開いた。昭和5年(1930)、耕作から耕筰へと改名する。戦時体制が色濃くなった昭和15年には演奏家協会を発足させ、自ら会長に就任する。昭和17年、帝国芸術会員に選出、同19年には日本音楽文化協会長に就任した。戦後の一時、戦時体制に協力した芸術家の一人として批判を受けた。全国の校歌の作詞を引き受けたことでも有名だが、蟹江小学校校歌の作曲を手がけたことでも知られる。昭和40年(1965)12月29日逝去。