蟹江町の地名編

蟹江町内の各字名などの地名の由来や歴史について解説します。

須 成

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現地名:愛知県海部郡蟹江町大字須成

旧地名:尾張国海東郡須成村(江戸時代)

須成の地名の起こりについて定かではないが、河川が運んだ砂が積もり出来上がった洲(沙)から、洲成り・沙成・砂成となり、現在の「須成」になったと云われている。

 鎌倉時代から富吉荘に編入されていたようである。

 村内の冨吉建速神社・八剱社及び龍照院は、奈良時代に行基菩薩により建立されたと伝承され、平安時代末期には木曽義仲に縁のあった社寺として有名で、天正12年(1584)の蟹江合戦の兵火により大半を焼失したが、江戸時代後期(1800年代)には、定期市である六斎市も開かれ、門前町として繁栄した村であった。

 例年8月(旧6月)に行なわれる須成祭は、織田信長・豊臣秀吉の時代から続く由緒ある祭である。「尾張名所図会・須成祭古覧」の項にて理解することができる。

 江戸時代の須成村戸数及び人口

  寛文11年(1671) 戸数  158戸

              人口  776人

  寛政 4年(1792) 戸数  240戸

              人口 1044人

 

 

蟹江本町

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現地名:愛知県海部郡蟹江町大字蟹江本町

旧地名:尾張国海東郡蟹江本町村(江戸時代)

 蟹江の地名の起こりについては定かではないが、この近くの河口から海岸付近の入江部分に蟹がたくさん住んでいたところから、その名が付いたといわれている。

 鎌倉時代から海東郡富吉荘に編入されていたものが、江戸時代初期(1600年代)に富吉荘が分割され、蟹江本町と改められとされている。

 戦国時代(1500年代)には、蟹江城が築かれていたが、天正12年(1584)の蟹江合戦により落城し、その後は廃城となった。

 江戸時代(1600年代)に入り、本町村には蟹江川を中心に蟹江港がおかれ、商業交易都市として発展し、定期市の六斎市も開かれ賑わいをみせた。

 その様子は、「尾張名所図絵・蟹江川」の項にて、理解することができる。割地制により居住地は、それぞれ城之割、北之割、五之割と名付けられ、五之割は東五之割と併せ両五、新屋敷は区域内に本町の会合場所「会所」が置かれ、蟹江町最初の役所が設置させられたことに由緒するとのこと。海門は蟹江城大手門が海に隣接している由縁もあるようだ。なお田畑が拡がる地域については、耕作を籤で決めるため「イロハニホヘト・・」と割地されたと云う。最後の「ス」だけが無いのは、将来の新田開発で拓く可能性を残したものかもしれない。

 江戸時代の蟹江本町村戸数及び人口

  寛文11年(1671) 戸数  355戸

              人口 1587人

  寛政 4年(1792) 戸数  724戸

              人口 2920人

 

 

 

蟹江新田

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現地名:愛知県海部郡蟹江町大字蟹江新田

旧地名:尾張国海東郡蟹江新田(江戸時代)

 蟹江新田は、寛永13年(1636)に開墾された地で、元禄7年(1694)に縄入検地のあった一村立ちの新田である。寛政頃(1789~1801)には、本郷は日光川の東西両岸にあり、枝郷は上芝切・下芝切・中河原・下市場・金野・西野新田の六つがあった。芝切はこのあたりの小島で村人が群生してた芝()を切に行ったところから、大海用は暴風雨のため大きな「みよ(溝)」が切れたところから、百保はズボン、ズボンと「みよ」が切れたときの音がそのまま「ズンボ」となったと云い伝えられている。鹿島は、川島のあとに、寛永18年(1641)常陸国(現茨城県)の鹿島神宮を鎮守に迎えて鹿島という地名になったとされているが、口伝の部分が多く、諸説あり定かではない。新田開発当時から村人は、風水害による堤防破壊や塩害に悩まされつつ、米や麦を中心とした農業生産と河川、近海での漁業に勤めた。日光川改修後は、大型船の着船が可能となり、大海用地区を中心に商業を営むものもあった。

 江戸時代の蟹江新田戸数及び人口

  寛文11年(1761) 戸数   49戸

              人口  233人

  寛政 4年(1792) 個数  215戸              

 

蟹江新町

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現地名:愛知県海部郡蟹江町大字蟹江新町

旧地名:尾張国海東郡蟹江新町村(江戸時代)

蟹江の地名の起こりについては定かではないが、この近くの河口から海岸付近の入江部分に、蟹がたくさん住んでいたところから、その名が付いたといわれている。

鎌倉時代から、海東郡富吉荘に編入され、その一部であったが、江戸時代初期(1600年代)に富吉荘が分割された際に、蟹江本町村川西割の人家と接して民家が建ち並んだこの地は、文字通り「本町」に対して「新町」として独立(一村立ち)し、村名を蟹江新町村としたとされている。

江戸時代は、農村的な色彩が強かったが、田地面積が少ないため西之森村へ耕作に行く者、舟入地区で漁業、商業に従事する者などが多数あったと当時の文献に記されている。

江戸時代の蟹江新町村個数及び人口

 寛文11年(1671) 戸数   76戸

             人口  380人

 寛政 4年(1792) 戸数  212戸

             人口  872人

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現地名:愛知県海部郡蟹江町大字今

旧地名:尾張国海東郡今村(江戸時代)

今の地名のおこりについては定かではないが、嘉暦2年(1327)頃成立したとされている鎌倉円覚寺「富田荘地図」には「蟹江」の他、今村、蟹江今村と記載され、当町の大字でもその成立は古い。地名で壱ノ坪、二之坪、五之坪の「坪」と残るのは、古代「条里制」の最小単位である「坪」に由来するとされている。 

古くから富吉荘に編入されていたが、蟹江今村については富田荘に属していたようである。

江戸時代初期、富吉荘が分割されたときに「本郷:本町」に対して「新たに開拓された郷:今」の意味から村名を今村としたと推測されている。

江戸時代の『尾張徇行記』によれば、蟹江川を挟んで川西と川東地区に分かれ、農村的な色彩が強く、高持(自作農)が少ないため須成村や蟹江本町村へ耕作に行く者、灰問屋や灰を生産する者などが多数有り、天明8年(1788)頃には農業が廃れ人口が減少したと記録されている。

江戸時代の今村戸数及び人口

 寛文11年(1671) 戸数  105戸

             人口  537人

 寛政 4年(1792) 戸数  141戸

             人口  502人

 

西之森

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現地名:愛知県海部郡蟹江町大字西之森

旧地名:尾張国海東郡西之森村(江戸時代)

 西之森の地名については定かではないが、須成の冨吉建速神社・八剱社及び常楽寺の「西にある森」、または蟹江城の「西にある森」の意とされている。南端の源氏島は、平治の乱に敗れた源義朝一行が東国に敗走する際、この地に船を留めて休息したことから、才勝は、サイカチの花が群生していたことから名付けられたと伝えられている。

 天正14年(1586)と推定される3月20日付け織田信雄朱印状に「かに江ノ郷内・・・西ノ森」と見え、古くは蟹江郷に属していたことが知られている。

 江戸時代(1600年代)は主に農村地帯として生業を営み、本郷(本田)の他に枝郷(新田)として北新田・源氏島・才勝の三郷があった。

「名句小景」に描かれている霞切橋は源氏島の入り口として古くから利用されていた。

 江戸時代の西之森村戸数及び人口

  寛文11年(1671) 戸数   87戸

              人口  562人

  寛政 4年(1792) 戸数  128戸

              人口  689人

 

 

鍋蓋新田

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現地名:愛知県海部郡蟹江町大字鍋蓋新田

旧地名:尾張国海東郡鍋蓋新田(江戸時代)

鍋蓋新田は、名古屋材木町の兼山屋与一が享保12年(1727)に請負新田として干拓し、延享2年(1745)に縄入検地があって一村立ちとして成立した村である。

江戸時代の『尾張徇行記』によれば、「農屋ハ善太川堤ヨリ建ナラヒ、無高小百姓ハカリナリ」と記されている。

地名の由来については定かではないが、開発当初の新田の形が鍋の蓋のようであったからと伝えられている。

なお、昭和4年(1929)に完成した日光川樋門工事のため田畑を掘って川筋を拡張したので鍋のように丸かった新田が現在のように細くなってしまったという。

新田開発当時から、村人は、風水害による堤防破壊、塩害に悩まされつつ米や麦を中心とした農業生産と河川・近海での漁業に従事した。

江戸時代の鍋蓋新田戸数及び人口

 寛政 4年(1792) 戸数    7戸

             人口   53人

 

 

福田新田

現地名:愛知県海部郡蟹江町舟入

旧地名:尾張国海東郡蟹江本町村・西福田村(江戸時代)

元々「舟入」という地名は、旧蟹江本町字替地地区と旧西福田地区の通称名で、一村立ち(独立した村)した村名ではない。江戸時代は蟹江本町村の枝郷として取り扱われていたようである。

それぞれの地名については定かではないが、「福田」とは祝い事から来たと江戸時代の文献『尾張国地名考』に記されている一方で「替地」ついては具体的な記述はなされていない。地元の伝承では、蟹江川改修の際に立ち退きを求められた住民が移り住んだことにより名付けられたとされている。

なお、「舟入」の地名は、江戸時代から尾張国三港の一つである蟹江港が置かれ港湾商業、伊勢湾漁業の中核として多くの船が出入りしたことによるとされている。

住民の多くは、寛永17年(1640)福田新田が開発されて港が南下したことにより、他地域から商業、漁業に従事するために移住してきた人々で、『尾張徇行記』には、特に盛んな漁業について「舟入ニテハ、鰻、蛤、蜆ヲ第一に採リ、漁師生産トス」と記されている。

明治時代の鉄道開通後も、漁業の盛んな地区として昭和37年(1962)の漁業協同組合解散まで由緒ある港町として栄えた。

 

 

善太新田

現地名:愛知県海部郡蟹江町大字新千秋

旧地名:尾張国海東郡善太新田(江戸時代)

 善太の地名の起こりについては定かではないが、江戸時代万治元年(1658)に服部茂左衛門により開墾され、開発当初は「前田新田」と名付けられたが、同郡内には同地名が既にあったので「前田」を「善太」に読みを換えて名付けられたとされている。

 新田開発によって形成されたので耕作人口は少なく、他地域から出作するものが多かったようである。

 明治に入り、大野新田、鰯江新田と合併し「千秋村」となり、明治39年(1906)町村大合併により永和村の一部となった。

その後、善太新田の一部が昭和31年(1956)に蟹江町へ合併し、明治時代の旧村名「千秋」にちなみ新千秋と名付けられた。

なお、千秋とは「千年の豊作=農を以って永久に栄える」との意味とされている。

江戸時代の善太新田戸数及び人口

 寛文11年(1671) 戸数   29戸

             人口  164人

 寛政 4年(1792) 戸数   80戸

             人口  397人

 

 

蟹江町地名変遷図

住居表示の変更もあり、歴史的な地名が消滅しつつあります。「蟹江町史」などを参考に町内の字名の変遷を一覧表にまとめてみました。地名の変更は現在も進行中です。今後とも追加更新していきたいと思います。

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蟹江本町・舟入地名変遷図
津島に続く海部地域第2の都市として栄えた蟹江本町及び漁港の地区舟入の地名の変遷です。
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須成地名変遷図
蟹江町最古の歴史を有し、須成神社・龍照院の門前町として栄えた須成地区の地名の変遷です。
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西之森地名変遷図
蟹江城や須成神社の西に位置する森と名付けられたとされる西之森地区の地名の変遷です。
西之森地名変遷図.pdf
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蟹江新町・今地名変遷図
商業都市蟹江本町と須成地区に挟まれた蟹江新町と今地区の地名の変遷です。
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蟹江新田・鍋蓋新田・新千秋地名変遷図
江戸時代に新田開発された比較的新しい歴史を持つ蟹江南部地域の地名の変遷です。
蟹江新田・鍋蓋新田・新千秋地名変遷図.pdf
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